CHAPTERへ     カイルとレイル 〜精霊物語・外伝〜

CHAPTER 8 シェラフィータ

 
      
最初、カイルは息を止めていた。

飛び込んだ水は温かく、全身を優しく包み込んでくれる。
そっと目を閉じ、すべてを委ねてしまいたくなりそうな心地よさ。

頭上から差し込む光に揺らめく水中の世界は幻想的で、
空を飛んでいるような不思議な気分がした。

カイルは深く深く潜っていった。
真珠色の輝きは遥か下だ。

途中、息が続かなくなって、水面に戻るのも間に合わず、
最後の空気を吐いてしまったとき、
カイルはルドウが言った言葉の意味を知った。

水の中なのに地上と同じように呼吸ができる。
戻るのをやめ、カイルは水面を見上げた。

輝く水の向こう。

金髪の少女が縁にひじをつき、祈ってる様子が小さく見える。

「レイル」

聞こえるはずもないのに呼びかけた。

少女は静かに祈り続けている。
再びカイルは向きを変え、底を目指してもぐっていった。

淡い真珠色の輝きが水をほのかに染めている。
目指す光の球体のところまでもう少しのところまで近づいてきた。

氷狼ルドウが光球の前でカイルを待っている。

ルドウの隣まで来た時、カイルは息をのんだ。

球体かと思ったのはドーム型になった空間で、
可憐に咲く淡い花びらが地面を彩っていた。

穏やかな光のもと、散ることのない永遠の花が咲き乱れ、
ドームの底を埋め尽くしている。

遠目ではっきりとは見えないが、花園の中央には台座があり、
周囲を囲むリネスの花に守られるように誰かが横たわっていた。

「あの人は・・・」

『あのお方は・・・』

その人物に向けられたルドウの瞳に初めて感情が見て取れた。

今までの凍てつく視線とはまったく違う、
あふれんばかりの敬愛に満ちた眼差し。

『我が主、シェラフィータ様だ』

「シェラフィータ!?」

カイルの全身に雷に似た衝撃が走った。
頭の奥でその言葉がこだまする。
まさか・・・精霊伝説に登場する水の精霊王シェラフィータ?

突然、ルドウは翼を広げた。

『私は剣の姿になる。あとはおまえに任せよう』

その言葉が終わるや否や、平穏だった水中に巨大な渦が巻き起こった。

それは有無を言わさず、荒々しくカイルを
強大な水の流れへと引きずり込み、彼の思考を一時奪った。

そして気がつくと、彼はドームの中にいた。



ドームの外は青空に似た澄んだ水に包まれている。

この花園は安らぎに満ちていた。

春を思わせるような大気のもと、かぐわしい香りが肌をくすぐる。

カイルの立つところから少し先、
リネスの花に埋もれて、シェラフィータの横たわる台座がある。

リネスの花は純白のベールのように神々しく台座の周囲を飾っていた。

精霊伝説に出てくる、水の精霊王シェラフィータ。
あの人はその王本人なのか・・・?

足元の花々に沈んでいた水の剣を拾い上げ、
カイルは花園へ足を踏み出した。
エレノアとの約束を果たすために。

カイルが近づくと、リネスの花たちはいっせいにさざめいた。

「お願い。起こさないで」

どこからか聞こえた、かぼそい声にカイルは足を止めた。

「誰も届かない遠い場所にいるから・・・
今はもう誰にもふれられたくないの」

「どうかこのまま夢に眠らせて」

あちこちから哀しい声が訴えかけてくる。

痛いほど伝わってくる切ない想いに胸を締めつけられ、
カイルはそれ以上進めなくなってしまった。

歩みを止めてしまった足は急に力を失い、がっくりとひざをつく。

リネスの花の中に倒れこんだカイルをかぐわしい香りが包みこみ、
頭が霞がかったようにもうろうとしてくる。

「眠い・・・」

リネスの花からふわふわと光の粉が宙を漂いだすのが見えた。

あれ? 僕は何をしにここへ来たんだっけ? 

重くなる頭にふと疑問がよぎった。
何かとても大切なことだったような気がするんだけど。

心地よい眠りがカイルをなでる。
逆らいがたく優しい手で、おやすみと。

目を閉じようとする空虚な瞳に手にした水の剣が映った。
突然、剣を持つ手から力強い意識が流れこんでくる。

『進め! おまえは約束を破るのか』

「!」

鋭い声は白濁した意識を瞬く間に切り裂いた。

ぼうっとしていた頭は霧が晴れるように冴えてきて、
ここに来た理由をはっきりと思い出す。

「そうだ。剣を届けなきゃ」

二、三度頭を振り、ふらつきながらもカイルは立ち上がった。

完全に捕らえたはずの侵入者を逃がしてしまった声は、
さらに悲痛に訴えた。

「お願い。そっとしておいて。
忘れ去られたままでいいの」

「記憶の重みに壊れてしまう。
どうか目覚めさせないで」

だが、もはやカイルの心は惑わされることはなかった。

歩みは止まらない。

リネスの花から光の粉があふれ、まばゆいばかりに周囲に漂う。
水の剣から薄いもやが流れ出し、カイルを取り巻いた。

光の粉はもやに阻まれ、カイルには届かない。

悲しそうに花々はその身を震わせた。



今、カイルは手を伸ばせば届きそうなほど
台座のすぐそばにまで来ていた。

台座の上にはリネスの花に抱かれて眠っている女性がいた。

「! この人は」

人の外見にさして興味を持たないカイルでさえ、
この女性には見とれざるを得なかった。

肌は白く透き通り、ゆるやかに波打った長い青銀色の髪が
わずかに乱れて、形のよい白いほおにかかっている。
ふくらんだ胸の上に組み合わされた手には指輪がきらりと光っていた。

純白のリネスの花に飾られて、高貴な人は静かに横たわっていた。
だが驚いたのは、その人の美しさのせいばかりではない。

この人をカイルは見たことがある。
霧の森で魔詩によって意識が飛ばされた時、
カイルが入りこんでしまった人が戦っていた相手。
鎧こそまとっていないものの、それはまさしく目の前に眠るこの人だった。

「シェラフィータ・・・ 痛っ!」

ふいにまたいつもの頭痛が襲った。



遠くで誰かが呼ぶ声がする。

誰だかは分からないけど、昔よく聞いたなつかしい声。

深い青に取り囲まれた世界。
青以外に何もないここは、ため息さえも消してくれる。

いつから私はここにいるのだろう。

優しい金色の光が差し込んでくる。
それはとてもまぶしくて・・・



視界には青空が広がっていた。
ゆっくりと身を起こした足元にリネスの花々が優しく揺れていた。

台座から足を下ろし、
すぐそばに額を押さえてうつむいている男に目を向けた。

収穫時の麦の穂を思わせる黄金色の髪。

「!?」

あれほど激しかったカイルの頭痛が嘘のようにひいていった。

異変を感じて、カイルは顔を上げた。
互いに信じられない目でふたりは見つめ合う。

目を覚ました女性は
眠っていた時とは比べ物にならない気高さをまとっていた。

光をたたえた蒼き双眸は深遠さを秘め、
ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。

大きく見開かれたその瞳には、カイルが映っていた。

「エイ・・・」

「これを! 頼まれて返しにきました」

カイルはいきなり水の剣を両手で女性の前に差し出した。

動揺するなというのが無理な話だ。
精霊使いであるカイルだからこそよく分かる。

台座にいる女性は今までに会った精霊使いとはまるでレベルが違う。
無限の水の精霊力を内に宿していた。

性別は知らなかったが、この女性が水の精霊王、
聖なる守護者と謳われた
あのシェラフィータだということは、もはや疑いようもなかった。

シェラフィータの顔にわずかな失望の色がよぎって消えた。

言いかけた言葉をやめてしまったが、
閉じかけた唇からは代わりに驚きの声が漏れた。

「ルドウ!」

しなやかな両手を差し出し、水の剣を受け取ると愛おしそうに抱きよせた。


「おかえり」

主の手に戻ったのを知ったのか、
剣はシェラフィータの言葉に応えるかのように
つややかに輝き、清らかな調べを奏でだした。

「これが水の剣の歌・・・」

清漣のごとくこだまする美しい剣の歌。

軽やかだが崇高な音色に、カイルは時を忘れて聞き入った。

「?」

次元袋にしまってある剣が高揚している。

カイルが大地の剣を取り出した瞬間、
剣は穏やかな緑の輝きをまとい歌を奏でだした。
水の剣とまったく異なる歌なのに、二振りの剣は共鳴しあい、
妙なる二重奏がドーム内に響き渡る。

「すごい・・・」

「それは大地の剣。 あなたは・・・
それに巫女まで」

「巫女?」

シェラフィータは台座から両足をそろえて降ろし、
かぐわしきリネスの野に降り立った。

清流を思わせるウェーブがかった髪が動きに合わせて優雅に揺れる。
身にまとっているローブのような服がさらさらと波打った。

「あの少女、水の空の上で祈っている少女です」

視線を上へ向けてみせる。
つられてカイルも頭上を見上げた。

ドームの水天井の遥か上に小さくきらきらと
光を反射している水面が見える。

「もしかしてレイルのことですか?」

「・・・彼女はあなたの連れですか?」

「はい。そうですけど巫女って・・・」

「精霊神が太陽、月、星々と共に生み出した
時を司る三姉妹です。
彼女は運命を象徴する星々の姫」

「レイルが!?」

「レイルという名自体が『運命』という意味なのですよ。
しかしなぜ彼女がここに」

「それは僕が連れてきてしまったから」

「いえ、そういう意味ではないのです」

くすりとシェラフィータは微笑った。

だいぶ落ち着きを取り戻したカイルはふと気づいた。

今まで精霊王ということに緊張して、
外見ばかりに目が行き、気づかなかったが、
この人にはどこか影のようなものがある。

微笑んでいる時でさえ、ぬぐいきれない憂いをまとっていた。
儚すぎて、なにより生気というものを感じない。
まるで美しい人形のよう。

「まだ名のっていませんでしたね。
私の名はシェラフィータ。
シドゥーンの新しき主人よ、あなたの名は?」

「カイルです。お会いできて光栄です」

「カイル、ルドウを届けてくれて感謝します。
ところで、あなたはさきほどルドウを頼まれて返しにきたと言っていましたね。
いったい誰に頼まれたのですか?」

「その剣はエレノアという女の人から預かりました」

「エレノア!?」

シェラフィータの体がびくっと震えた。

「彼女は生きているのですか!」

急変した声の調子に驚きながらも、カイルはつとめて冷静に答えた。

「いいえ。たぶんだいぶ昔に亡くなったのだと思います。
僕が会ったのはエレノアさんの幻です」

「・・・そうですか」

「エレノアさんはあなたに会えたら伝えて欲しいといっていました。
封印が解けようとしている。どうか力を貸してください、と。
どういう意味か僕には分かりませんけど」

「・・・。 残念ですが私はもう協力することはできません」

言葉とともに深いため息がこぼれた。

「あの・・・シェラフィータ様」

憂いに沈んだ瞳がカイルに向けられた。

「あなたはなぜここで眠っていたんですか。
僕たちが知っている精霊伝説に出てくる水の精霊王、あれは・・・」

「それ以上聞かないでください! お願いです」

悲痛な叫びがカイルの言葉をさえぎった。

耐え切れないように両手で額を押さえつける。
リネスの花たちがいっせいにざわめきだした。

「・・・やはり私は眠っていたほうがいいようです」

やがて顔を上げたシェラフィータは鎮痛な面持ちでそう言った。

「ちょっと待ってください。
それではエレノアさんの願いはどうなるんですか?
亡くなってしまった後もずっととどまっていたのに」

水の瞳がじっとカイルを見つめた。
深い、深いため息と、
そしてわずかに震える声が赤い薔薇の唇からもれた。

「あなたは似すぎているのです。
あなたを見ると思い出さずにはいられない」

「?」

「・・・。 なんでもありません」

シェラフィータは瞳をふせた。

「分かってください。私にとって目覚めていることは拷問なのです。
静かな眠りに逃げでもしなければ、記憶の鎖はいつまでも私を苦しめる。
カイル、ルドウを届けてくれたこと、感謝します。
さようなら」

「待って・・・ !!」

逆らえない力が強引にカイルを連れ去った。

シェラフィータが、花園が、どんどん遠くなってゆく。
このままじゃいけない! カイルは強く願った。

あの人を救いたい! と。

再び、いつもの頭痛がカイルを襲った。
それは今までで一番ひどく、意識を奪おうとする。
だがカイルは強い意志の力で痛みに抗い、受け止めた。

ぱりぱりぱり。

体の奥の奥で眠っていたものが殻を破ろうとしている。
あともう少し。

「!」

レイルは泉の中が急に光り輝くのを見た。

あたたかい黄金色の光が水の中いっぱいに広がっていく。
水面にまで伝わってくるこの光のあたたかさをレイルは知っていた。

「この光は・・・カイルなの?」


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