闘牛士の歌


「あの子も恋のひとつでもすれば」

そんな母のかすかなつぶやきを耳にしたとき、なぜか思い浮かんだのは日野の顔だった。
弦の切れたヴァイオリンを抱いて、今にも泣き出しそうな顔で走り去っていった彼女。


  心満たす音色


「月森くん。 どうしたの?」

「君を待っていた」

彼女の姿を認め、俺はベンチから立ち上がった。
音楽科校舎の屋上で練習しているのは知っていたから、ここで待っていれば会えるだろうと思っていた。

「これを、君に」

差し出したのは俺の母でありピアニスト、浜井美沙のチャリティコンサートのチケット。

「月森くん、これ・・・」 

「母と共演する。
 君に、聴いて欲しい」

しばらく俺を見上げていた日野はやがてうなずいた。

「ありがとう。 必ず行くね」


チャリティコンサートが始まる前、俺は近くの海岸に出ていた。
いつもはこんなことしないが、今日はなぜか風に当たりたくなった。
海の遙か向こうに目をやる。押し寄せる波の音に包まれていると、ふいに彼女の音を思い出した。

『俺は君を認められない』

はっきりとそういったこともある。
技術的には未熟な部分が多いにもかかわらず、不思議と彼女の音色には心ひかれた。
ヴァイオリンを始めてから日が浅いという信じられない噂を耳にしたが、彼女が奏でる音は伸びやかで、心に響く。

「さすが音楽家の息子さんは違うわね」
「素晴らしい技術だ」 「天才だ」
「お父様ゆずりかしら」 「まさしく遺伝だね」

幼い頃から人前で演奏するたびに、まわりの大人たちは口々にそう言った。
音楽家の息子、遺伝・・・
もし俺が音楽家の息子でなくとも、彼らは同じように俺の演奏を認めてくれただろうか。

「蓮、音楽は自分が楽しみ、他人も楽しませるものなの」

演奏が終わったあと、母は幼い俺の肩に手をおき、やさしい眼差しでのぞきこむ。
父も俺の頭に手をおいてはよく言っていた。

「いいかい。技術ばかりではいけないんだよ」

母のピアノと父のヴァイオリン、ふたりはよく合奏していた。
彼らの奏でる音楽はどこまでも甘く、やさしく・・・
そう、彼らの音楽はどこまでも心ひかれる。
日野のヴァイオリンが紡ぐ音色は彼らの音楽を思い出させた。

だからあの夜、窓の下で彼女が奏でるアヴェ・マリアに合わせてしまった。
他人の音にあわせるなんてことはまずない、むしろ練習中に勝手にあわせられれば気が散って不快に思うほどだったのに。
そしてあのときヴァイオリンは驚くほどやさしく歌っていた
そこまでの音色なのに、あれが彼女の実力でないとしたら。
あのヴァイオリンしか奏でられないとしたら。
許せなかった。
それは何年もかけて真面目に音楽に取り組んできた者たちに対する冒涜だ。

だが彼女は努力した。
あのヴァイオリンの弦が切れたあと、悩み苦しんで、それでもヴァイオリンが好きだと言って戻ってきた。
奏でる音は今までとまるで違い、明らかに技術が落ちた演奏を悪く言う者は多くいたけれど、
それでも彼女は震えながらもまっすぐに向き合って、乗り越えて、
その強さに俺は、俺のほうが背中を押されて、家族と向き合うことができた。

「月森くん!」

「日野・・・」

砂の上を私服姿の彼女が駆け寄ってくる。

「今日は招待してくれてありがとう」

並んで歩いている途中、彼女の視線に気づいて俺はふと足を止めた。

「なにか」

「月森くんが本番前にこんなところにいるのがちょっと意外で」

屈託なく微笑む。
そんな何気ない表情にも、いつから目を離せなくなったのだろうか。
コンクールは自分との戦いだ。
そう思っていたから、最初は他人を受け入れられなかった。
俺の音楽は閉ざされていた。
それを気づかせてくれたのは君の奏でる音。
君の音色は俺の音楽に新しい世界を開いてくれた。

以前、音色について、君と話したことがあった。
君は恋をすると音が変わる、そんなことをいっていたが、俺にはそうは思えなかったし、
少なくとも俺は変わらない。そう思っていた。
だがコンクール期間中、音楽に集中できないことがあった。初めてのことだ。
俺はそんな自分に動揺したし、困惑するばかりだった。・・・バカみたいだ。
気づいてしまえば簡単なことだったのに。
周囲が口をそろえて言うように、俺が、俺の音が変わったのだとしたら、それは君のおかげなのだろう。

「あ、えっと、あの・・・」

見つめられていることに気づいたのか、急に彼女は顔を赤らめて視線を落とした。
その先に小さなピンク色の貝を見つけて、ぱっと表情が明るくなる。

「あー かわいい!」

「あっ」

思わず声がもれた。
しゃがみこんで貝をとろうと伸ばした手をとっさにつかむ。
驚いて振り向く彼女に、手をおさえたまま言った。

「桜貝は割れやすい。また指を傷つけたらどうする。
 この指からしか生まれない音楽があるんだ。
 もっと大切にしてくれ」

君はあまりにも自分の価値を分かっていなさすぎて、見ているこっちがはらはらする。
俺が君のそばにいることができなくなったとき、誰かが君のことを気にかけてくれるといいんだが。

「月森くん・・・
 ありがとう。 気をつけるね」

彼女は砂の下からそっと貝をすくいとった。
指の間からさらさらと砂がこぼれていく。

「とってもきれい。
 こんなふうにいろんなものにふれて、感じて、体験して。
 傷ついても、その痛みだって、みんな音楽で表現できたらいいな」

「そうか。
 心が受け止めたすべてが君の音楽を輝かせる。
 心の底から生まれる音色、それが君の音楽なんだな」

俺は音楽が自分にとってどういうものかわかっていなかったんだろう。
自分の考える理想の音楽を演奏するために、練習を重ねてきた。
だがいつのまにか音楽を手段としてとらえてしまい、なんのために表現するのかという目的を理解していなかった。
君に会ったことで、俺は自分を見つめなおすことができた。
君を思うたび、心満たすもの。
君の存在が俺のなかにある音楽を呼び覚ましてくれる。
いつも相手の心に響く演奏ができればいい。伝えたい気持ちが届くように。
すべてのために音楽がある。
とりわけ君のために。

「いい気分転換になった。
 今日はいい演奏ができそうだ」

俺が君に対してできることは、最高の演奏をきかせることだけ。

練習室でアヴェ・マリアを弾いていたとき、君は窓の外で目を閉じて聞いていた。
あのときのことを今でもはっきりと覚えている。

「何をしているんだ、そんなところで」
「ねえ、今のなんて曲?」

俺の問いに、逆に君は身を乗り出すように尋ねた。

「とってもきれいな曲! それにすごくうまいんだね! びっくりしちゃった!」

「そんなことを軽々しく口にしないでくれないか。 お世辞なら結構」

「そんなんじゃないよ!」

「えっ?」

俺の家族にはピアニストである母をはじめ、ヴァイオリニスト、指揮者と音楽家が多い。
音楽性だけでなく人間としても一流である彼らの前では、俺の存在など些細なものにすぎない。
自分自身の評価を確立することばかりに固執していた俺に君は声を弾ませて言った。

「高い音なんて透き通るようだし、なんだか胸にしみてくるような。
 知らなかった・・・ ヴァイオリンってこんなにきれいな音がするんだね」

! 評価にとらわれすぎて自分しか見えていなかった俺に目を輝かせて話す君はまぶしくみえた。
そのときに感じた戸惑いが始まりだったのかもしれない。

彼女とヴァイオリン、どちらをとるかといわれれば、俺は間違いなくヴァイオリンを選ぶだろう。
だから彼女の心のなかに誰がいようと、俺には何もいえない。
それなのに、身勝手なことだと分かっていても願ってしまう。
今、俺の目に君が映っているように、君の心が俺だけを映していてほしいと。

母の演奏が終わり、俺はステージにあがった。
家族と共演するのは初めてのことだ。
一礼し、ヴァイオリンを構える。
振り向いて母とうなずきあうと、ピアノの前奏に続き、ヴァイオリンが歌い始めた。

忘れないで欲しい。
俺の音色は君に向かっている。
たとえどんなに遠く離れたとしても。


『FLAME』(月森蓮のキャラソン/谷山紀章) の出だし、カルメンの 「闘牛士の歌」 にのせた、
“When you smile I look into your eyes. But I can't see that who always stay in your mind” という歌詞が
気に入ったので、同じキーでMIDIを作ったついでにこの話も書いてみました。
アニメでは続きがあって、コンサートのあと、楽屋を訪ねてきた香穂子を見て、浜井美沙(月森・母)が
「やっぱりね」 と意味ありげに呟きます。このシーン、大好きです。
月森親子が共演したブラームスの 『雨の歌』、素敵な曲でした♪

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