ナゾトキ 第二話

彼は手にした写真立てを見つめていた。
彫像のように動かず、ただ時だけが流れている静かな部屋。
当分続くかと思えたその空間は突如響いたノックの音により終わりを告げた。

「カムイ、いる?」

少年の声に、つと顔を上げる。
写真立てを机の上に伏せて置いたカムイはドアに歩いていった。


「レン様、どうかなさいましたか」

自室のドアを開けた先で少年が見上げていた。

「酔い止めない? カイトが船酔いしちゃって」

「それならサロンに薬箱がございます」

後ろ手にドアを閉め、カムイは先に立って廊下を歩き出した。

「髪長いね。船のスタッフなのにめずらしくない?」

首の後ろでひとつに束ねているカムイの髪は腰ぐらいまであった。

「いえ、私は船員ではございませんよ。今回はたまたまこういうお仕事をいただいただけです。
 あの、レン様? 髪をひっぱらないでいただけるとうれしいのですが」

サロンには変わらず、アーロン、ビョルン、コーラルの3人が残っていた。
特に会話をしているわけではなく、ソファに寝そべっていたり、本を読んだり、好き勝手に過ごしている。

「こちらです」

「ありがと」   薬をもらったレンはサロンを出て行った。

「どうかしたんですか」   ふたりが入ってきてから、ずっと動きを目で追っていたコーラルが尋ねた。

「カイト様が船酔いされたようで、レン様が薬を取りにこられたのです」

「頼りねえ探偵だな」

「なりたくてなるものでもなし、仕方ないだろう」  アーロンはたしなめるようにビョルンを見た。

「コーヒーをお淹れしましょうか」

「ああ、頼む」

テーブルの上の空のカップを持ち帰り、ふたたびコーヒーを淹れたカイトはそれをサロンに持っていくと、部屋には戻らず、キッチンに入った。
2日分の食事はすでに準備されており、温めたり盛り付けるだけになっていた。
飲み物やつまみ、デザートの類もそろっている。
彼のほかにスタッフは誰もいなかった。もちろん船を操縦する人たちはいるだろうが、顔をあわせることがない。
カムイは今夜分の食事を取り出し、準備を始めた。

「?」   甲板を歩いていた少女の足がふと止まった。

この船の甲板は上段、中段、下段と3つある。
外洋に出れるような船で、部屋数が多いにもかかわらず、乗客はリンを含めてたった6人。
ちょっと前に探偵さんと男の子が散歩しているのを見かけたけど、今は甲板にリンだけしかいない。
サロンから外に向かうと、中段の甲板に出る。
そこから上の甲板に上がり、景色を満喫してきて、中段の甲板を抜け、今度は下に降りてきたとき、リンは足を止めた。
音が聞こえる。これは・・・ピアノの音? 音に導かれるように、何とはなしに足を踏み出した。
近づくにつれ、曲ははっきり輪郭を現してくる。
なんだっけ、この曲。 タイトルは忘れちゃったけど聴いたことがある。結構有名なクラシック曲だ。
決然とした孤高な旋律。強い意志を感じさせる音を奏でていたのは、小さな背中だった。

「ピアノ・・・弾けるんだ。片手だけで?」

弾き終わるのを待って声をかけると、おどろいたように少年が振り返った。

「ああ。カイトに教えてもらった」  レンは鍵盤の上に置いた左手に視線を落とした。

「すごいね」

「ありがと。
 君・・・リンはどれくらい前からベールをしてるの?」

「うーん。どれくらいかなあ。何年も前っていうのは間違いないんだけど。
 実は昔のことは覚えてないの。
 火事のショックが大きかったせいだろうってお医者さまは言ってたけど」

明るい口調で少女は言葉を続けた。

「ベールを外してみたときもあったんだけどね、おじさまは目をそらすから・・・
 それからは鏡を見ることもなくなっちゃった。今じゃこれが普通」

「そっか・・・」

少年の深い青翠の瞳が少女をまっすぐに見つめた。
ベールの下の表情は読み取れない。
時計に視線を移したレンは椅子から降りた。

「もうすぐ7時だ。行こ」

リンとレンがサロンに戻ると、その先のダイニングのテーブルにはすでに料理が並べられていた。

「レン様、カイト様のご様子はいかがですか」   カムイが声をかける。

「うーん、たぶん晩ごはんはいらないと思う」

「そうですか」

「酔い止めは効かなかったのか。わざわざ薬を取りにきたのにね」

すでに椅子に座っているコーラルがレンに顔を向けた。

「わざわざってほどでもないけど。薬は効いたと思うよ。単に熟睡してるだけ」

「なんだそりゃ。ほんとにあいつは探偵なのか」

「ビョルン。口が過ぎるぞ。
 わざわざ招待されるくらいだ。それなりの理由があるのだろう。
 では、これで全員というわけだ。いただこうか」

アーロンは食前の祈りをささげ、フォークとナイフを手に取った。
給仕で立ちまわるカムイは、レンの前に料理を置く際、小声でたずねた。

「カイト様のお食事をのちほど部屋へお持ちいたしましょうか」

「いいよ。たぶん朝まで起きないから」

「では、もしお目覚めになりましたら、遠慮なく声をおかけください」

「うん」

7時になると、時計から明るい曲が流れた。
サロンに置いてある大きな時計は、1時間ごとに鐘の音の代わりに違う曲が流れる。

「これ、止められねえのか」  ビョルンは不機嫌そうにカムイに言った。

「止められると思います。明日の朝まで止めておきましょうか」

「ああ。うるさくてかなわん」  グラスに注がれたワインを一気に飲み干す。

「かしこまりました」

用意された食事は申し分なかったが、時計から流れた曲のように明るく軽やかにとはいかなかった。
ビョルンは明らかに機嫌が悪く、お酒をがぶ飲みしてたし、コーラルはどこかおどおどしていた。
カイトにいたっては船酔いで姿も見せない。
アーロンは静かに食事を口に運び、リンとレンだけが年が近いからか、いつのまにか打ち解けているようだった。

「おやおや、リンは眠ってしまったのか」

頬杖をついて眺めているレンの横でリンは机につっぷして熟睡していた。

「よほど疲れたとみえる。私たちはそろそろ失礼させてもらうよ。
カムイ、リンを部屋まで運んでもらえるかな」

「かしこまりました」

アーロンと彼のうしろにリンを抱きかかえたカムイがついていき、ふたたびカムイが戻ってきたときには、 レンとコーラルの姿はなかった。
ビョルンだけがソファに移動し、ひとりまだ飲んでいる。
カムイは片付けを始めた。
そのうち、ふらつきながらビョルンも出ていき、やがてサロンの明かりは消えた。


朝一番にサロンに現れたのはカイトとレンだった。

「おはようございます。カイト様、具合はいかがですか」

「ああ、薬を飲んで夕方から熟睡したおかげで良くなったよ。ごはんは何時? もうおなかすいちゃって」

「すぐにご用意いたします」

サンドイッチと温められたスープが運ばれてくる。
テーブルに置かれるなり、次々に口に放り込むカイトを眺めながら、レンが言った。

「ねえ、マフラーしてたら食べにくくない?」

カイトは昨日と同じく、青くて長いマフラーを巻いていた。
両端を背中に回しているが、ストラのように長く、先が床につきそうだ。

「なにを モガ 言っている モグモグ これは モグ ファッションだ」

「あー もういいよ。 食べるのに専念してて」  レンは肩をすくめ、スープを口に運んだ。

「おはようございます、コーラル様」

「おはようございます」  カムイの声に続いて、レンも入ってきたコーラルに挨拶した。

「おはよう。先生の船酔いはなおったみたいだね」

口にいっぱい食べ物をつめこんでいるカイトを見て、コーラルは言った。

「はい、おかげさまで」

会釈はしたが、食べる手を休めないカイトに代わり、レンがこたえる。

「コーラルさんはよく眠れました?  昨日はなんだか落ち着かないみたいだったから」

「そ、そんなことはないよ。他の人はまだなのかな」

コーラルはきょろきょろとあたりを見回す素振りをした。時計の針は8時をまわっている。

「9時を過ぎてもおみえにならないようでしたら、私が声をかけてまいります」

コーラルの前に皿を置いたカムイが言った。
がっつくカイトを見物しながら、コーラルもスープを口に運んだ。

「ところで」  ようやく食べる手を止めたカイトが、ナプキンで口元を拭いつつ言った。

「コーラルさんはアーロンさんやビョルンさんとどんな関係なんですか。
 古くからの知り合いのようですけど」

「え、そ、それは・・・仕事でちょっと。
 あ、そうだ、あなたを招待したE.Gravenさんに何か心当たりがないんですか」

身を乗り出すように逆にコーラルは尋ねた。

「それがさっぱり。本名とも限らないですしね〜 こういうのって偽名を使う人もいるし」

「はあ。そうですよね。招待しておいて、姿を見せないこと自体、おかしいし」

「僕は無闇に探偵だって言わないほうがいいと思ったのに。
 自分からバラしちゃうんだもんなー」

左手に持つフォークにさした一口サイズのバナナを見ながら、レンが聞こえよがしに言った。

「チッチッチ、これも作戦というものだ。探偵がいるって分かったら軽率な行動を思いとどまるかもしれないだろ」

「どうだか。 ごちそうさま。外に行ってくる」

バナナを口に放り込み、席を立ったレンはコートを手に出ていった。

「・・・。 いやはや生意気な子で」   コーラルと目が合ったカイトは肩をすくめてみせる。

「しっかりした子じゃないですか。 助手ですか。
 探偵さんもずいぶん若そうに見えますけど」

「ああ、それはよく言われます」

そのとき勢いよくレンが駆け込んできた。

「先生! 流氷が見えるよ!」  

「そうか。コーラルさんもご一緒にどうです?」

席を立ったカイトはコーラルに目を向けた。

「あ、いえ、ビョルンたちを起こしてきます。もうすぐ9時だし」

「じゃあ、僕たちもリンを起こしに行こ?」   レンがカイトの腕をひっぱった。

「私が行ってまいりますよ」

「いいよ。どうせヒマだし」  申し出たカムイを制して3人は部屋を出た。

「さむ・・・」

外からの冷たい空気が肌を刺す。カイトはマフラーを巻きなおした。
コーラルはビョルンの、カイトとレンはアーロンの部屋の前に行き、ドアをノックする。
ビョルンのほうは中から面倒そうな声がかえってきた。が、アーロンのほうは返事がない。

「アーロンさん?」   カイトは強めにノックを繰り返した。

ノブをまわしたが、ロックがかかっていて開かない。

「どうしました?」  異変に気づいてコーラルがやってくる。

「返事がないんです。アーロンさん」   今度はこぶしでドアを叩くが、やはり応答はない。

「カムイを呼んでくる!」  レンが廊下を駆けもどっていく。

「なんだ?」  ただならぬ騒ぎにビョルンも出てきた。

「カムイ、マスターキーはあるかっ」  レンに連れられて駆けてくるカムイを見つけ、カイトが叫ぶ。

「ございません。鍵はひとつだけです」

!? 突然、なかから少女の悲鳴が聞こえた。

「リン!? ドアを開けて! リン!」  ドアに駆け寄ったレンが懸命に呼びかける。

やがてノブがまわり、ドアが開いた。
ベールをかぶってはいるが、ネグリジェの上に一枚はおっただけの少女が姿を見せる。

「リン」  無事を確認してほっと息をついたのも束の間、少女は突然、その場に座り込んだ。

「だいじょうぶ?」   レンが寄り添い、そっと支える。

そんなふたりの様子をちらっと映しながら、カイトはドアを大きく開けた。
そのまま踏み込もうとする足が動きを止める。
リンのそばにいるレンも、コーラルもビョルンも、カムイも皆、同じところを見つめていた。
誰も何も発しない。時が止まったようだった。

不安は的中した。

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