ナゾトキ 第四話

手すりから遙かな海を眺めている少女の後ろ姿をじっと見ていた。
甲板には彼女以外誰もいない。ふちの広い帽子をかぶった少女は飽きることなく海を見つめていた。
そっと足を踏み出そうとしたとき、小さな叫びとともに帽子が風にあおられ、少女の頭上から離れた。
それは海にではなく、船のほうに飛んで転がり、あわてて少女は追いかける。

カムイは甲板に転がる帽子を見つけ、ふたたび飛ばされる前にさっと拾い上げた。
持ち主はすぐにわかった。あわてて追いかけてくる人がいたから。

「どうぞ」   目線を合わせるように、ひざを曲げて帽子を差し出す。

「ありがとう」

「! あなたは・・・リン様、ですか」

カムイの目がわずかに見開かれた。
少女はマスクをして、長い前髪が顔にかかっていたけれど、ベールをかぶっていなかった。

「・・・っ!」

ひったくるように受け取ると、リンは素早く帽子をかぶり、うつむいた。

「失礼しました。
 レン様もそうですが、リン様もこの海のような、とても綺麗な瞳をしていらっしゃいますね」

「嘘」

両手で帽子のふちを握りしめ、深々と顔を隠した先からぽつりと言葉が返ってきた。
すべてを拒絶する響き。けれど、カムイは微笑んだ。

「私は嘘はいいません。
 ある方に似ておりましたので、少し驚いてしまっただけです」

「ある方?」   リンは顔を上げた。

「はい。私の恩人です」

めずらしく彼の声には感情らしきものがこもっていた。
興味を覚えたリンがさらに話しかけようとしたとき、カムイはすっと立ち上がった。

「申し訳ありません。仕事に戻らせていただきます。海に落ちないようにご注意くださいませ。
 それではごゆっくりお過ごしください」

事務的な声で一礼して去っていく。
はっと気づいたリンはあわてて声をかけた。

「あ、カムイ、上着ありがとう! サロンにおいてあるから」

「かしこまりました」

振り返ったカムイは一礼し、また向きをかえて歩いていった。

「カムイ! リンを見なかった?」

かけてきた少年が急に足をとめ、荒い息で話しかける。

「リン様なら甲板におりました」

「甲板かー ありがと!」

走りだすレンをカムイはしばらく見送っていた。

「いた! リン!」

帽子をかぶった少女のそばに駆け寄ったレンは、ひざに手をつき、大きく息をついた。

「どうしたの? そんなに慌てて」

「どうしたの、じゃないよ。急にいなくなっちゃうんだもん」

少年の息はまだ荒かった。
彼が自分を探して船内を走り回ってくれていたことにようやく気づく。

「ごめんなさい。他の人たちはどうしたの? サロンには誰もいなかったけど」

「ビョルンさんとコーラルさんは自分の部屋に戻った。
 カムイはリンが移る部屋の準備をしてて、カイトは・・そこらへんにいるんじゃないかな」

汗が冷えたのか、少年はぶるっと身体を震わせた。

「寒くなってきたわ。中に戻りましょ」

ふたりがサロンに戻ると、カイトがカムイの淹れたコーヒーを飲んでいた。

「おかえり。 ふたりともいないからびっくりしたよ」

「のわりには優雅にコーヒーを飲んでるんだな」   レンがぴしりと言い返す。

「それは、ほら、カムイにふたりは甲板にいるって聞いたから」

鷹揚にカイトはわらった。

「探偵さん、おじさまはどうして亡くなってしまったの?」

「・・・そうか。きみはなにも知らされていないよね」

ふっと真顔になると、カイトはコーヒーカップを置いた。

「聞きたいかい?」

リンはうなずいた。
リンとレンはカイトと向かい合うようにソファに腰かける。
カムイがふたりに温かいココアを入れてくれた。

「といっても、話せることはほとんどないんだ。
 朝、きみたちがいつまでも来ないからドアをノックして声をかけたけれど、返事がない。
 部屋のなかにはアーロンさんが倒れていて、床には飲みかけのワイングラスが落ちていた。
 窓から誰かが侵入した形跡はなかった」

「おじさまは具合が悪かったわ。発作だったのかも」

「その可能性はゼロではないけれど、たぶん違うと思う。 かすかに毒物のにおいがしたから」

「おじさまは苦しそうな顔をしてたわ。大きな音も立てたはずなのに。
 ・・・目の前でそんなことが起こったのに、私、全然気づかなかった」

少女は両手のなかに顔をうずめた。

「リン・・・」   レンが気遣うような眼差しを向ける。

「これは推測だけど。きみは睡眠薬を飲まされたのかもしれない」

「誰に?」   少女は大きな瞳で探偵を見つめた。

「それは分からない。アーロンさんは自殺かもしれないし、他殺かもしれない。
 きみの部屋は別に用意してもらったから、あとで荷物をとってくるよ」

「だいじょうぶ。自分でとってくる」

「え?」   カイトとレンから同時に声がもれた。

「でも鍵がないわ」

「それならぼくが持ってるけど・・・」   カイトが鍵を取り出す。

「貸して」  リンはそれを受け取ると、ソファから立ち上がった。

「リン様、荷物をお運びします」
「僕も行くよ」

さっと歩いていくリンのあとをカムイとレンが追いかけ、カイトもコーヒーを飲み干すと、遅れて後を追った。
コーラルとビョルンの部屋は静かだった。もっともドアが閉まっていれば、大きい音でないと廊下にもれることはない。
部屋のドアを開けると、リンはゆっくりとシーツがかけられた場所に近づいていった。
入り口でレンとカムイが見守る中、かがんでそっとシーツをめくる。
思わず手で口を覆ったけど、視線を逸らせることなく、リンはしっかりとアーロンを見つめていた。
そしてまたシーツをかけ、奥の部屋に入っていった。

物音がして、しばらくすると大きなスーツケースを押し、小さなバックを肩にかけて姿を現す。

「お運びします」

カムイが中に入っていき、スーツケースを受け取った。

「強い子だね、リンは」

レンが見上げると、いつのまにかカイトがとなりにいた。

「・・・そうだね」

レンとカイトが待っているドアのところにくると、リンは振り向いて、もう一度部屋のなかを見渡した。

「おじさまは本当に死んでしまったのね」

遺体にかけられたシーツを見つめたまま少女は言った。

「あの人は罪深かったのかもしれない。でも、それでも・・・
 誰かに殺されたのだとしたら、私はその人を許さない」

少女の強い決意を秘めた響きに、誰もが声を失った。

荷物を新しい部屋に運び込み、4人はサロンに戻ってきた。
時計の針は12時をまわっていた。
カムイが手早く昼食の支度をととのえ、次々とテーブルに運んでくる。

「あのふたりはごはんを食べに来ないのかな」

フォークをひっかけた手で頬杖をつき、レンがドアのほうに目をやる。
ふたりとは離れ、背を向けているリンは食事が進まない様子だったが、カイトとレンは普段どおり食べていた。

「まあ、他殺だとしたら、部屋に閉じこもる気も分からなくもない。
 部屋に誰も入れなければ殺されることもないからね」

「一応、声をかけてまいります」

「私も行く」   リンは席を立った。 

「・・・・・・」  カムイについて出て行くリンをレンは意外そうに見ていた。


「さっきの話の続きを聞いていい?」

「さっきの話、ですか」   リンに合わせて歩調をゆるめたカムイが目を向けた。

「私に似てるっていう・・・」

「ああ。でももうその方はお亡くなりになってしまわれたのです」

「え?」

「ずっとお会いしていなくて、私がそのことを知ったのはだいぶあとになってからでした。
 聡明で、気が強いところもありましたが、気高くお優しい方でした。
 リン様があまりにも似てらっしゃったので、さきほどは本当に驚いてしまい、失礼いたしました」

そう話すカムイの表情はいつもよりやわらかい感じがした。
昨日会ったばかりだし、使用人という立場だからか、カムイはほとんど感情を見せない。
淡々と、そつなく仕事をこなしていく。
だからなおさら、その人のことを話すときの表情が印象に残った。

「カムイはその人が大好きだったんだね」

「・・・はい、尊敬しておりました」

「うらやましいな」

「?」  カムイは問いかけるような目でリンを見た。

「死んだあとも思ってくれる人がいるのって、その人の心のなかで生き続けるってことでしょ。
 みんなから忘れ去られてしまうのは、さびしいと思うから」

「・・・。リン様は優しい心をお持ちなのですね」

少女を映すカムイの瞳に穏やかな光が揺れていた。
部屋の前でふたりは立ち止まった。コサージュがかかっているドアをカムイがノックする。

あれ? リンは首をかしげた。

「コーラル様、お食事のご用意ができました」

しばらく待ってみたが、返事はなかった。
廊下を歩き、今度はビョルンの部屋のドアをノックする。

ドアは開かなかったが、食事はいらないと声が返ってきた。

途中、もう一度、コーラルの部屋のドアをノックしたが、返事はなく、ふたりはサロンに戻ってきた。

「来なかったの?」

リンとカムイだけだったのを見て、レンが尋ねる。

「ビョルン様は昼食はいらないそうです。コーラル様は返事がありませんでした」

「返事がない、か・・・。ぼくもさっき声をかけたけど、何も反応がなかった。
 あとでまた行ってみるか」

半分ひとりごとのようにカイトは言った。


昼食のあと、カイトとレンはサロンでくつろいでいたが、リンは甲板で海を眺めていた。
ベールをしていない肌に直接触れる海風は冷たく澄んでいた。

「綺麗だね」

すぐ後ろで声がして、リンは急に振り返った。
よほどぼーっとしていたのだろうか。人が近づいてくるのに全然気づかなかった。

「ごめんごめん。びっくりさせちゃったかな」

ばつが悪そうにカイトがわらう。長いマフラーの先が風に揺れていた。

「リンはよく海を眺めているよね」

「うん。海の青はとっても綺麗だから」

「そうだね」  カイトはマフラーに顔をうずめ、寒そうにしながらも、手すりから海をのぞきこんだ。

「本当に、吸い込まれそうな綺麗な青だ。
 水を神聖視する人がいるのも分かる気がするよ」

「すべてが許されるような気がする」

「ん? なにか言った?」

「こんな綺麗で冷たい海に飛び込んだら、どんな罪でも消えてしまいそうな気がする」

リンは海を見つめた。この手すりを越えたら、綺麗な青に包まれて眠るように消えていけるのかもしれない。

「うーん、気持ちは分からなくはないけど、おすすめはしないな。
 罪が消える前に命が消えてしまうよ」

「・・・おじさまが亡くなった夜、誰もがみんな消えてく夢を見た。
 だから起きたとき、夢と分かってほっとしたの。全てがそう、嘘なら本当によかったのに」

少女の口から深いため息がこぼれた。手すりから身を起こし、カイトに向き直る。

「探偵・・・ううん、カイトさん、あなたは私を知ってた?」

「どうしたんだい、急に」

カイトは瞬きをして、自分を見つめる少女にあらためて視線を向けた。

「レンはたぶん私のことを知ってる、昨日会う前から」

「彼がなにか言ったのかい?」

「いいえ」  リンは首を振った。

「そんな気がしただけ。でもきっと私もレンを知ってる・・・思い出せないだけで」

リンは手すりについた腕のなかに顔をうずめた。

「リン」  カイトの手が無防備な少女の背にのびてゆく。

「先生!」

突然聞こえたレンの声にリンがはっと顔を上げたのと、カイトが伸ばした手をひっこめたのは同時だった。

「何かあったのかい」   カイトの声に、駆けてきたレンは息を整えるように一呼吸おいて話しはじめた。

「コーラルさんの部屋から・・」

怪我してるのによく走りまわるなあ、と思いながらリンが向きを変えたとき、視界の端で何かが動いた。
っ!? 何気なく見た瞬間、思わず手で口をおおう。

? カイトとレンもリンの視線の先を追って顔を上げた。

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