ナゾトキ 第六話
「絶対に離れないで!」
少年は左手で少女の手をつかんで走り出す。
手袋もせず、外に立ち尽くしていたリンの手は冷え切っていた。
外の階段を使って一番上の甲板に向かう。
中段へ上がる階段と一番上の甲板に向かう階段までは結構距離があって、手を引かれるリンの息が荒くなる。
エレベータはあるのだが客室の通路のほうへ行かなくてはならず、かなり遠回りになるので、リンを気遣いながらもレンはつないだ手を離さず、最上階を目指した。
「はあ、はあ・・・」
一番上の甲板に到着してようやくレンが足を止めると、リンはその場にしゃがみこんだ。
白い息が舞う。
そこには誰もいなかった。
うずくまったリンから離れ、レンはひとり手すりに向かって歩いていった。
水面に落ちた位置から、だいたいの場所の見当はついている。
特に変わったものは見受けられない。
「ロープ、片付けたんだね」
「え?」 レンは振り向いた。
リンが手すりの根元を指差す。
「そこ、コーラルさんの部屋の上でしょ」
「あ、カムイが降りたときの。・・・・・・。片付けているときに落ちた・・・?」
手すりの支柱の間隔は大人でも通り抜けられるぐらい広い。
足元は踏み外して落ちないように高くなってはいたけれど、ロープをほどこうと身を乗り出した状態でバランスを崩せば、
落ちてしまう可能性は充分にあった。
「?」
ぐるりと手すり沿いをまわっていたレンの足元にちらりと青いものが映り、手すりから少し身を乗り出して下を見た。
甲板に下にもぐりこんだ手すりの根元に青いマフラーがひっかかり、冷たい風になびいていた。
甲板にひざをつき、手を伸ばして拾い上げたそれは、やはり見慣れた青いマフラーだった。
手すりで強くこすれたのか、真ん中あたりの一部分が汚れている。
「それは探偵さんの。まさか・・・」 リンはその先を言わなかった。
「・・・ここは暗くて危ない。下に行こう」
レンはマフラーを持って階段を降りていった。
サロンは明かりがついていたものの、誰もいなかった。
キーキャビネットを見ると、ひとつだけ鍵がなくなっていた。
「ないのはビョルンさんの鍵?」 わきから顔をのぞかせたリンがたずねる。
「たぶん。客室のなかで一部屋だけ明かりがついていた。
僕たちの部屋とリンの部屋の鍵はあるし、カムイの部屋は海に面していない」
「カムイは事故だったかもしれないけど、探偵さんはもしかしてビョルンさんに・・・」
「そうだね。いくらカイトがぼーっとしていても普通に歩いてて船から落ちることはないだろうし」
少年は手にしたマフラーに目を向けたまま、淡々とこたえた。
その態度が無性に少女をいらつかせる。
どんどん人が少なくなる状況で、精神的に追い詰められていたのかもしれない。
「なんでそんな落ち着いていられるのっ!」 ヒステリックにリンは叫んだ。
「探偵さんも海に落ちちゃったかもしれないんだよ!?」
次は誰の番? そう思うとどうしようもなく怖かった。
「わかってる」
少年は静かに答えた。
甲板の先からずっと眺めていた綺麗な海の色と同じ、青翠の瞳が少女を見つめる。
瞳には強い意志が宿っていた。
「だからこそ冷静にならなきゃいけないんだ。
これ以上犠牲者を出さないためにも」
少年の口調も表情もさっきまでと変わらなかったが、その瞳を見た少女は言葉を失い、うつむいた。
「・・・ごめんなさい」
「いいんだ。僕は君を守りたい。だから冷静でいられるのかもしれない。リンの部屋の鍵は?」
少女が指差すと、レンはその鍵と自分の部屋の鍵をとった。
そしてキッチンの冷蔵庫から手軽に食べれそうなものを持ってくる。
「部屋に行ったほうがいい」
船内は静まり返っていた。
ふたりとも無言のまま、通路を歩く。
いつもだったら気づきもしない、ちょっとした物音にもびくびくしてしまうリンは、レンの上着の空の右袖をぎゅっと握っていた。
部屋について、リンが鍵を開けると、レンが言った。
「一応、なかを確認させて」
テーブルのうえに、非常食がわりにもってきた食べ物をおくと、レンはすべての部屋を見回った。
ベランダにも出て、あたりを見回した後、不安気に見守っているリンのところに戻ってきた。
「だいじょうぶみたいだね。この部屋ならベランダから入ってくることはまずできないし、誰かが隠れている様子もない。
明日、僕が迎えにくるから、それまで絶対にドアを開けちゃだめだよ」
「うん・・・気をつけてね」
不安のためか、リンの声は弱々しかった。
「・・・だいじょうぶ? 怖いんだったら一緒にいる?」
レンはリンの顔をのぞきこむように言ったが、
「だいじょうぶ。レンこそ気をつけて。明日、絶対迎えにきてね」
リンは沈む気持ちを振り払い、笑ってみせた。
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが音もなく閉じる。
少年はノブを回して、鍵がかかっているのを確認してから、離れていった。
明日、船が港につけばたぶん安全だ。
それまで生き延びることさえできればいい。
ひとりになると、リンは簡易キッチンへ行き、引き出しからナイフを手にとった。
ピストルを向けられたら役には立たないかもしれないけど、護身用の気休めにはなる。
刃をしばらく見てから、またさやに戻してポケットに入れた。
「・・・・・・」
あたりを見回し、ソファをベランダに続く窓際に引きずっていき、キッチンの椅子をドアの前に積み上げた。
この部屋には他に誰もいない。何度そう言い聞かせても気は休まらなかった。
物音がすれば、背後に誰がいるんじゃないかと背筋が凍りそうになり、鏡はもともと見ないけど、もし後ろに誰かが映っていたらと不安にかられ、
その前を足早に通り過ぎる。
何も食べる気がおきず、枕の下にナイフをしのばせてベッドに横になったものの、なかなか寝付けなかった。
それでもいろいろ考えているうちに、疲れが出たのかいつのまにか寝てしまっていた。
「痛てっ・・・」
冷たさと痛さに顔をしかめながら男は目を開けた。
ここは、どこだ? 暗くて何もわからない。
「起き・・・・・でも・・・る・・・とになる・・」
つぶやくような声が聞こえ、ぼんやりと男は顔を向けた。
「!? おまえは!?」
直後、背中に鋭い痛みが走って、男はうつぶせに倒れた。
背中に生暖かいものがあふれ、それと反比例するように手足は冷たくなっていく。
動かない身体に静かな声が降りそそいだ。
「おやすみなさい。永遠に」
朝、リンの部屋のドアが控えめにノックされた。
「誰?」 積み重ねていた椅子をそのままにしたまま、リンは小声で尋ねる。
「レンだよ」 小さな声がかえってくる。
用心深く少しだけ開けて確認したあと、リンは椅子を押しのけて、ドアを細めに開けた。
「おはよう。なかに入っていい?」
「うん。あれ、包帯は?」
昨日までは右腕を三角巾でつっていたけど、今日のレンは普通に服に袖を通していた。
ぱっと見、ケガをしているのか分からない。
「汚れちゃってね。ギブスも外しちゃったけど、ちょっと早まったかもしれない」
痛むのか、軽く右腕をおさえ、ばつが悪そうに微笑んで見せた。
「・・・よっぽど怖かったんだね。でも無事でよかった」
部屋の中に入ったレンは、ドアのところにある椅子と窓際に移動されたソファを見て言った。
ソファをかたしカーテンを開ける。外はすっかり明るくなっていた。
窓を開けてベランダに出たレンはふと、いぶかしげに目をこらした。
考え込むように部屋の中に戻ってくる。
「僕はちょっとあたりを見てくる。リンはここにいて」
「え、いや!」 即答した少女をなだめるように少年は言う。
「リン、昨日言ったとおり、ここなら外から入れない。鍵もかかるし、たぶん一番安全なんだ」
「じゃ、一緒にここにいようよ! 船は今日港につくんでしょ」
引き止めるようにレンの左腕を両手でぎゅっとつかんだ。
「気になることがあって・・・確かめたいんだ」
「なら私も一緒にいく」
「すぐ戻ってくるから」
「イヤ!」
少女はマスクをしているが、帽子やベールはかぶっていない。前髪に隠れがちな目は涙ぐんでいた。
「分かったよ」
レンはリンのほうへ向き直った。そして真顔で言った。
「僕が君を守る。約束する。だからリンも、どんなことがあっても僕を信じてくれる?」
「うん」
手を離したリンの前を少年は横切っていった。
「こっちに来て。頼みたいことがあるんだ」 鏡台の前でレンはリンを呼んだ。
やがてドアがそっと開き、ふたりは部屋を出て行った。
少年は部屋に入っていったときは自分では結べなかったのか、髪をおろしていたが、出ていくときは昨日までと同じ、
頭の上のほうで後ろ髪をひとつにまとめていた。
そして少女は、頭の上に大きなリボンをつけ、マスクもベールもしていなかった。
長い前髪をピンで留め、露わになった顔に火傷のあとはない。
一緒にいる少年と同じ髪の色と綺麗な目をしていた。
ふたりは一番上の甲板に向かう。
甲板に向かう階段の途中で、レンはリンの手をにぎって足を止めた。
驚くリンの耳元に口をよせてささやく。
「甲板に何があったとしても落ち着いて。取り乱さないで」
リンはこくりとうなずいた。
* * *
「もう誰も信じない!」 サロンから少女の悲痛な叫びが聞こえた。
「リン・・・」
「来ないで!」
少女は奥のキッチンに駆け込んだ。
ガタガタと物音が聞こえ、心配げな眼差しを向ける少年のまえにふたたび姿をあらわした少女の手にはナイフが握られていた。
「落ち着くんだ」
「近寄らないで!」
両手でしっかりと握ったナイフを突き出した。
鋭い切っ先は、まっすぐ少年に向けられている。
少年を見据えたまま、少女は言った。
「今までは自殺や事故だったのかもしれない。
でもビョルンさんは後ろから刺されていた。
この船には私とレンしかいないのよ。私じゃなかったら犯人は」
さっきの光景がはっきりと浮かぶ。
最上階の甲板。
手を外に突き出すように息絶えていたビョルンの背中には、コーラルと同じくナイフが深々と突き立っていた。
「信じていたのに」
「僕の気持ちは変わらない。君を絶対に守る」
「そこまで言うんなら、私を守りたいんなら・・・君が消えてよ!」
少年は言葉を失い、つらそうに目を伏せた。
でもはっきり告げた。
「・・・ごめん。それはできない」
「嘘つき! 大っ嫌い!」
少女はナイフを突き出した。
「やめるんだ!」
もみあう音が聞こえ、やがて静寂がもどってきた。
その静けさをやぶるように、手からすべり落ちたナイフがにぶい音をたて、じゅうたんの上でかすかにはねる。
ナイフの刃についた赤が飛び散り、やわらかなじゅうたんの上にいくつもの染みをつくった。
「・・・君がいけないんだよ」
力ないつぶやきがもれる。
視線は足元に倒れている少年に注がれていた。
少年は動かない。身に着けている濃い色のベストにぬれたような染みが腹部から広がっていた。
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