第5話 烏城にて
「金吾の様子も見ておくべきか」
軍をまとめ、帰路についた元就は小早川秀秋のいる烏城(うじょう)に寄った。
烏城は備前…毛利の治める安芸の国の東に位置しており、毛利家から見れば、東国からの守りの要となる地にある。
烏の名を冠するだけあって、少し変わった形をした黒塗りの美しい城だ。
城主の小早川秀秋は中納言の官位を与えられているため、金吾中納言と呼ばれていた。
一国の主にして中納言という位を持つにしては、頼りないというか、色白のふっくらとした、気弱そうな青年だった。
「あ…あわわわあわ…も、も、も、毛利さま!」
「何をしておる、兵をひかぬか」
元々おどおどとしている小早川秀秋ではあったが、兵を整えており、元就の顔を見るなり逃げだした。
主と城を守るべく小早川の兵たちが立ちはだがる。
「これしきの兵で我を阻もうとは…愚にもつかぬ」
明智光秀との戦いで怪我を負ったとはいえ、並の兵で元就にかなうわけがなく、
輪刀がくるくると何回か舞ううちに、門を守る兵たちは蹴散らされ、城門が開放された。
「ああっ! ぼくよりずっと頑丈な扉がっ!」
門の奥から情けない声が聞こえてくる。
「フンッ 無様な…鳥居を潜るよりよほど容易き事よ」
しかし小早川の兵たちが道をふさぎ、思うように進めない。
数を頼みに押してくる。
・・ちっ、こんなところで、とんだ寄り道よ。
「邪魔だ! 刻が無駄よ…手間をかけさせるな!」
思わず声を荒げる。
「ひいぃ! どんどんこっちに迫ってくるよ!」
金吾の情けない声も苛立ちに拍車をかける。
行き止まりに追い詰められ、怯える金吾につかつかと歩いていく。
小早川の兵は追い払われ、両脇には毛利の兵たちが整然と並んで控えていた。
「貴様…何の真似かと聞いておこう」 氷の眼が金吾をとらえる。
「あ、あわわわわ…も、毛利さまっ ごめ、ごめ、ごめんなさっ…ぎゃあっ!」
恐怖のあまり、ガタガタ震えて口が回らない金吾の左頬を、振り上げた元就の左手の甲が容赦なく張り飛ばした。
「わあっ! ひいっ!」
間髪を置かず、右頬、左頬と往復ビンタを食らい、小柄な体が顔面から地面に叩きつけられる。
「うわああああん! 許じてぐだざい…っ! もうじまぜん…ッ!」
金吾は地面に突っ伏して頭を抱えたまま、人目を気にせず大声で泣き出した。
「…………」
元就は地面に這いつくばって泣いている金吾のほうへ歩き出した。
そのまま何もない地面を歩くように、人を踏んで渡っていく。
「ぎゃっ! ぶきゅ! ぐへっ!」」
歩くたびに足元から声が上がる。
かかとが高めのブーツを履いているにもかかわらず、尻、背中、頭とバランスを崩さず踏みつけて通り過ぎ、
少し行った先で足を止めた。
振り返ることなく、背後に問いかける。
「金吾、貴様の役目を言ってみよ」
「や、やぐめ…?」
金吾はおそるおそる顔を上げて、元就を見上げた。
元就は振り返り、砂にまみれた金吾の顔を冷たく見下ろした。
「言えぬのか」
「あわ、あわわわ…ややややややくめ…」
立ち上がろうとするが、足が竦み、尻もちをついてしまう。
のど元に輪刀の刃先が突きつけられた。
「…貴様には記憶力が無いようだな。ならば思い出すまで待ってやろう」
「あ、ああ… たすけてー!」
金吾は脱兎のごとく逃げ出した。
「金吾、貴様は人として無策そのものよ。
…何を見ている、これしきの事を我にさせるな」
「申し訳ございませぬ! かかれぃ」
控えていた毛利軍の兵があわてて動き出した。
「ああ、もうこんなところに!? 僕にげるよ」
金吾の逃げ足は速く、必死に奥へと逃げ込む。
小早川の兵はあたりにいるのだが、肝心の本人が逃げるのに必死で指示まで気が回らない。
「一体どうすれば…ぼくには難しすぎるよ!
ええっと…進みたい方に進んでいいよ」
「え? は…はっ!」
統制のとれない小早川軍に、その元凶たる主。
その様子をつぶさに見る元就は苛立ちを通り越し、もはや呆れていた。
「乱れた兵の動き…話にならぬな。
兵の質、我が毛利とは比ぶべくもない」
ふたたび追い詰められ、さきほどと同じ光景が繰り返される。
「ずびばぜん、毛利ざまっ! ざがらっでるづもりなんでないんでずっ…!」
「金吾…我の目を見よ、そして怯えよ」
「こわいよー うわあぁぁんっ! ごめんなさい毛利さまあっ!」
「謝罪の前に思い出したことを言ってみよ」
「思い出しましたっ!
ぼくは駒です! 東に対する壁っ!」
「フン、ようやく思い出したか」
「ちゃんとやりまず! だから許じでえっ!」
「捨石程度には役に立て、よいか」
「ううう……ごべんなざいぃ……」
そのとき、ふたりの上に影が落ちた。
空を見上げると、巨大な人型のものが空を飛んでおり、頭上にきたとき、誰かが飛び降りた。
黄色いフードが風に煽られて、快活そうな青年の顔がのぞく。
ふたりのすぐ近くに身軽に着地した男は、人懐っこい笑顔を向けた。
「久しぶりだな、金吾。毛利も変わりないか」
「家康さぁぁん!」
助けが来たとばかりに、金吾は家康に駆け寄り、素早く後ろに隠れた。
「徳川か」
元就は無表情に徳川家康を見やる。
家康も元就に顔を向けた。
「お前が何をしたのかは問わない。だが、ずいぶん金吾を怖がらせているようだな」
「フン…人は恐怖によって縛るが常道。
我が知略の駒とならぬなら邪魔なだけよ」
「恐怖か、それは血を凍らせ、心を怯えさせるものだ。
犠牲の上に成り立つ策など知略とは呼ばない。人を苦しめる策は…」
「愚かしい」 元就は家康の言葉を切り捨てた。
「元より策とは陥れるために行うものであろう。
兵など労わったところで戦になれば死ぬ…無益よ」
家康の表情が翳る。
「そんなやり方では自ら絆を断ち切るだけだ…!
武力とは人の絆を断ち切るものだ。ワシはそれを望まない。
天下に平和を招くのは策ではない。絆だ」
無表情だった顔に露骨に嫌悪の色が浮かぶ。
不快感を隠そうともせず、元就は言った。
「絆? そのような幻、何だというのだ?
絆など、所詮は見えぬ紐…捕虜を縛する縄よりも役に立たぬ」
「絆を軽く見るものは絆に泣く! お前にもいつかその時が来るだろう。
兵たちを見捨てた先を、幸福とは思わん」
「犠牲とせずに何のための兵卒よ。
人の縁など何れ消えゆこう、蚕の糸より頼りならぬ」
「ワシは絆こそが人の救いであると信じる。
金吾、お前はその気になればできる男だ…自信を持ち、胸を張れ」
その言葉に後押しされるように、金吾は家康の背後から顔をのぞかせた。
「家康さんはやさしいよね。ぼくをぶたないし」
「………」 しばしの沈黙の後、元就は静かに告げた。
「喜べ金吾…もはや貴様に壁になれとは言わぬ」
「ほ、本当ですか毛利さばぁっ!? ありがとう…ありがどうございまずぅっ!」
「…故に死ね、用済みの駒は不要よ」
喜びに輝いた表情は一瞬にして真っ青になる。
「ひゃああああ!? ゆるしてええぇええ! 今後こそ、今度こそお役にたちますからぁ!」
「己が国すら庇えぬ情けない貴様が我の役に立つ…?
最早駒にも成り得ぬ…我が盤上の塵屑よ」
「毛利…お前という奴は…」 たまらず家康が間に入る。
「情けなくていい。情けがないよりずっといい。
強きも時には死ぬ! 人は弱くてもいいんだ!
なぜそうも絆を憎む? 目の敵とする?」
「わからぬか、我は他人に興味はない。
たとえそれが肉親であったとしてもだ」
「ならば、お前は一生孤独を生きるのか!」
「その通り」 語気の強い言葉に動じることなく、淡々とこたえた。
「絆を掲げる貴様に分かるはずもない。
我が望むは安芸の安寧…他国がどうなろうと、誰が死のうとも構いはせぬ。
徳川よ、我と貴様は天と地ほど異なろう…」
「たった一人で…
案じてくれる者もおらず、一生呪いだけを背負うことになってもか」
「言われなくともそのつもりよ。
独り故に如何なる鬼謀も振るえる。我の弱体化を狙うには及ばぬ言葉だ。
憐れみなど、そのようなもの、我は求めたことすらない」
「脅すとか、騙すとか、利用するとか、それでは駄目なんだ。
憎しみも怒りも、たった一つの絆が癒す。
一体どうやったらお前にも分かる? 絆という力の強さを」
熱く語る家康に、元就は冷ややかな目を向けた。
「絆など、枷にしかならぬ。
情をかけたところで、皆死ぬ。ならば最初からかけぬのが道理よ」
「すべてを拒絶して…それで、苦しくないのか」
「思い上がるな。我を悟るは我のみよ。
国を導く重責から成る誇りには及ばぬと知れ!」
家康は元就をじっと見つめた。
「お前には情がない、そういう事だな?」
「貴様には非情がない… それだけの事だ」
言葉を切ると、元就は顔を背けた。
「もうよいだろう、貴様と我の心は別物。分かり合うなど、もはや無用だ。
我が盤上に最も不要な存在が貴様よ」
家康は視線を伏せた。
「残念だが…ワシもお前と分かり合えるとは思えん」
「貴様とは気が合わぬ、それだけは分かろう」
元就は家康の背後にいる小早川秀秋に目を向けた。
「金吾…今一度服従を誓え…我の目を見て誓え」
「はひぃ〜!? こ、怖すぎて…見られましぇ〜〜ん!!」
ふたたび家康を盾に隠れてしまう。
「フン、まあいい、役に立つと言ったからには我の命に逆らうな。
貴様の役目、ゆめ忘れるな」
元就は踵を返した。
「用は為した。戻るぞ」
「はっ」
烏城を後にして毛利軍は帰国の途についた。
「…………」
「…元就様・・・、元就様! 如何なされましたか、元就様!?」
馬上でぼんやりしている元就に武将が呼びかけた。
「……何でも、ない」
「お顔の色が優れませぬ。お加減を悪くしたのでは…」
怪我の具合を心配する声を突然、別の将のただならぬ声がかき消した。
「ば、馬鹿な…厳島が…落ちた…!?」