第6話 厳島奪還
伝令が持ってきた知らせは、厳島が豊臣軍によって落とされたという衝撃的なものだった。
「守備隊は、外へおびき出され…待ち伏せに遭い… ほぼ、壊滅状態…」
伝令の言葉にわずかに目を見開く。
「……何故だ、何があっても動くなと…守備隊には厳命したものを…!
何故、我が命に逆らった…!?」
「それが…元就様が烏城にて敗れ…捕らわれたとの知らせを受け、出撃を…」
「そのような流言に、容易く乗せられたと言うのか…!」
「相手は、竹中半兵衛…極めて巧緻な策を用いたものと…」
豊臣軍を支える天才軍師、竹中半兵衛。
豊臣秀吉の右腕と称され、その智謀は天下にあまねく知れ渡っていた。
だが! 元就は声を震わせた。
「理由にならぬ…理に適わぬ! 我は動くなと命じた!
駒が棋士の智に逆らい動く道理は無いッ!」
「神子殿は!?」
誰かの問いかけに、伝令は言葉に詰まった。
皆の視線が集中する。
「分かりませぬ。生き残った者のなかにお姿は見当たらず…」
「なんということだ」
重苦しい空気が包む。
「おのれ……行くぞ!!
急ぎ戻り、安芸を脅かす愚劣共を始末するのだ!」
「はっ!」
遠征へ出かけている隙を狙い安芸に攻め入るとは……
全てはあの竹中半兵衛の仕業か。
ぎり、と奥歯を噛んだ。
良かろう、己の愚行を恥じて、去ね。
盤上が駒の強かさ、思い知るがいい。
しかし何だ…この胸の疼きは…?
我が恐れているだと…何に? 失うことか?
否。愚にもつかぬ。我は迷わぬ、我は揺るがぬ…ッ
だが、言葉とはうらはらに、手綱を持つ手に力がこもり、急く心のままに馬を速めていた。
中国大返しのごとく、速やかに取って返した毛利軍は、朱の大鳥居を臨む地、厳島に上陸した。
「我が居ぬ間に国を攻めるか…この海で果てるがよい!」
「あ、足止めに徹するのだ! 奴が息切れるまで…ッ!」
毛利軍の襲撃を知った豊臣軍が押し寄せる。
その光景に耐え難い怒りが沸き起こった。
この安芸の地は、我が毛利そのもの…それを土足で踏みにじるとは…!
「おのれ凡俗…! 下劣なる策にて我が厳島を穢せし罪…血でもって贖え!」
神聖なる地、厳島の静寂を破る戦の声が響く。
豊臣の兵たちを次々と薙ぎ払っていく毛利軍の先頭には元就が立ち、輪刀が舞ったあとには道が切り開かれていた。
自ら先頭に立ち、正面から力づくで押し切る戦い方は智謀で知られる元就にはめずらしい。
「元就様! 我らを捨て駒としてお使い下さい!」
「死兵となろうとも、御采配に従うまで…!」
傷が癒えていない元就を気遣い、後に続く毛利軍の兵たちが次々と声をあげる。
毛利の兵は元就を恐れていると同時に、今の安芸の安寧は元就のおかげであることを理解していた。
厳島には竹中半兵衛が派遣され、豊臣秀吉は来ていないとの情報は得ているが、
元就率いる毛利軍が戻ってくれば、全力で奪還しようとするのは明らか。
豊臣軍の軍師である半兵衛は、秀吉の親友でもある。
狭い厳島に大軍が押し寄せても身動きが取れなくなり、守る方が有利とはいえ、
秀吉本人が援軍を率いて現れる可能性を考えれば、遅く巧みな戦術より、拙速が勝る。
元就はそう判断した。
「皆の者、我が采配に従え! 勝利への唯一の道ぞ」
「おーっ!」
敵陣に真っ先に斬りこんでいくなど、元就が冷静さを欠いているのではないかと危惧する者が少なくなかったが、
杞憂だったようだ。
毛利軍の士気は上がり、百万一心となり豊臣軍を押していた。
「毛利軍来襲! 兵が押されております!」
大鳥居の正面にある舞台に豊臣の伝令が駆け込んできた。
そこにいる二人の男のうち、細身の男の前でひざまずく。
「さすがだね、毛利元就…実に素早い対応だ」
「おーやおや、半兵衛さんよ!
どうやらお前さんの策は不発だったみたいだな!」
少し離れたところにいた巨漢の男は、伝令の報告を聞いている優男に大声で話しかけた。
「そうだね…君の言う通りだ、官兵衛君。これじゃ、何の意味もない…
これでは猛禽を悪戯に怒らせただけ… 僕の謀は、完全に失敗だね」
からかうような黒田官兵衛の言葉に気を害した風もなく、竹中半兵衛は素直に自分の非を認めた。
「毛利本隊を挟撃できないとなると、地の利がない小生らが不利だ。
まったく…とことんツイてないな、半兵衛さんよ」
「一時的な劣勢だよ…騒ぐ必要はないさ」
半兵衛は伝令に向かい、優しく言った。
「慌てず騒がず、君達にできる事をやるんだ」
「……。さーて、毛利の顔を拝みに行こうかね」
黒田官兵衛は鳥居を背に歩き出した。
「貴様のような下賤な者が…我が聖地を…!」
鋭い眼が官兵衛を睨みつける。
竹中半兵衛と黒田官兵衛、「豊臣二兵衛」が揃い踏みしていたとは…
「いや〜感心感心、さすがのお前さんも、自分ちを取られると怒るんだなぁ」
気楽な口調で官兵衛は話しかけた。
「黙れ凡愚、薄汚い口を開くなッ!」
「まあ無理もないか…あれほどお前さんを慕っていた兵をやられちまったんだもんな…」
官兵衛の声から、からかう調子が消える。
「貴様…! 我が守備隊は容易に動くはずがない。
如何にして厳島からおびき出した…!?」
「ここの守備隊は手強かったよ…あの手この手でおびき出そうとしたんだが、中々動かなくてな…
結局、ずたぼろになったお前さんの偽物まで用意してようやく動いたんだよ」
「……………………」
「偽物と疑いながらも…主の傷ついた姿にいてもたってもいられなかったんだろうよ」
「………………愚かよ」 低い声が漏れた。
「情に厚い、いい部下じゃないか!」
「愚かな……ッ! 愚か…愚か愚か愚か、愚か…ッ!」
「な…!? 皆、お前さんを思って…」
「情に絆され、我が命に背いた挙句がこれよッ!!」
感情のままに元就が叫ぶ。怒りを露わにした目が官兵衛を捕らえた。
「情に厚い、いい部下…だと!?
その情とやらで国が滅びても、か…!」
「ぐ…そ、そいつは…」
・・所詮は我も駒の一つ。
駒ひとつのために国を存亡の危機にさらすなど…!
「愚か…あまりにも、愚かッ! これほどの怒りを…我は知らぬッ!!」
言い終わるや否や、官兵衛に肉薄し、二振りに分離した半月刀で続けさまに斬りつける。
「お前さん、心が枯れてるな。…毛利の兵たちに同情するよ」
数撃打ちあったのち、早々に官兵衛は身を翻した。
「こんなもんか。これで逃げ出す理由ができた」
黒田官兵衛を退け、朱の鳥居を臨む舞台に足を踏み入れた元就は立ち止まった。
視線の先には、床に突き立てた剣の束に手をのせ、こちらを見ている仮面の青年の姿があった。
「少々手荒な訪問になってすまない、元就君。
君の兵達が道を空けてくれないものでね」
「貴様…我が厳島を穢すなど、戯言では済まされぬぞ」
「あの男は、僕の厳島攻めを口外しなかったようだね…」
元就の怒りのこもった態度とは対照的に、穏やかに竹中半兵衛は言った。
仮面で一部隠れているが、それでも眉目秀麗な顔立ちなのが分かる。
「織田と豊臣が組み、西の地を蹂躙する腹か…
…否、貴様と明智の独断か!」
切れ長の目が鋭く男をにらみつけた。
「貴様の厳島攻めを知れば、我はすぐさま兵を返す…
その我の背後を、明智が操る金吾の軍が攻める…か。
それで我の裏をかいたつもりか、竹中」
「隙を狙ったつもりだったけど、甘かったかな」
「愚策とも言えよう。
未だ予断を許さぬ情勢の中、わざわざ大坂を手薄にする危険をおかすとはな」
「フフ、それだけの価値が君にはある… そう解釈してもらえると助かるよ」
穏やかに、微笑みさえ浮かべ、半兵衛は言った。
優雅で柔らかな物腰は常に本心を覆い隠している。
「腹の探りあいは疲れるだけだ、元就君。
僕からの要求はただ一つ。
豊臣軍に組み入れたいんだ、この国最強を誇る君の水軍をね…
君にはそれなりの地位を用意するが、どうかな」
「我が駒を欲しいと申すか。油断ならぬ男よ」
「兵を駒としてしか見ていないんだね、君は」
「それがどうした…戦に情など不要。兵など所詮、捨て駒よ!」
「僕から見ればそこが付け入る隙なんだ」
諭すように言葉を続けた。
「元就君、君は兵に対して気を払わなさすぎるよ。
いずれ誰もついてこなくなる、それではね」
「かような戯れ言、よくも平然と言えたものよ。
我が水軍を手に入れて何とする」
「世界に通用する軍を作るのが僕の野望なんだ」
「故に略奪か…笑止! 貴様の行為など、賊と変わらぬわ。
その愚劣な行為、我は忘れぬ…!」
「将棋の駒は奪い合える、ということさ」
片手で持った剣の刀身をぽんぽんと、もう一方の手の平の上で弾ませた。
「待つのは嫌いなんだ…早く決めてくれないか。
豊臣に従うか、それとも、ここで朽ち果てるか!」
「フン、我が頭を垂れるのは日輪のみよ。猿ごときに従う道理などないわ」
「残念だよ。君と僕は分かり合えない」
静かに告げた半兵衛は、剣を持つ手を頭上に掲げ、身構えた。
「知恵比べはひとまず置いて…肉弾戦で決着といこうか」
元就もまた輪刀を構える。
「思い知るがいい…我が地に足を踏み入れ、五体満足で帰れぬ事を。
全ての事象は、我が盤上にあり」
「君の盤上、か…さて、どんな駒があるのやら」
「貴様さえ消えれば、豊臣など独活の大木よ!」
「賛辞として受け取ろう…でも、秀吉への侮辱は頂けないな」
剣戟の音が響く。
元就の双刀に分離できる巨大な輪刀と、半兵衛の鞭のように伸びる伸縮自在な関節剣。
ふたりともクセのある武器を見事に使いこなしている。
「僕には夢がある…邪魔はさせないよ。
豊臣には優しき夢を、君には醜き現実を」
「夢、か…下らぬ話だ」
「君は何も切望しない…渇きをいやす事もない。それはそれで幸せだけどね」
「我に心などいらぬ・・・我は理解など求めぬ。
ただ日輪と、溢るる智のみあれば良い!」
いつしか、ふたりの周囲にそれぞれの兵が集まり、遠巻きに大将同士の戦いを見守っていた。
この戦いの勝者が、厳島の戦の勝軍となる。
「悪いね。急いでいるんだ。
早く済ませよう…僕がこうして、夢を見ていられるうちに…」
「余裕を見せるか、竹中。だが仮面の下は焦りで歪んでいるぞ」
「僕には無駄な時間などないんだ。
けれど、焦っているのは君のほうじゃないかな」
「………」
「元就君、どうやら君の認識を改めなければならないようだ。
冷徹な表情は作り物…僕にはそう見えるよ」
「我の動揺を誘おうとしても無駄だ。
貴様ごときの言葉に惑わされると思うてか!」
目に見えぬ斬撃の応酬が繰り返され、膠着状態に陥るなか、ふいに半兵衛は小さく咳き込んだ。
胸を押さえ、足が止まる。
「顔色が冴えぬようだな…貴様が斜陽ぞ」
「いまさら命など惜しくはない。ただ、君に捧げる命がないだけだ」
鋭く風を切る音の直後、鞭のようにしなる関節剣が床を叩きつけ、破片が空を舞う。
距離をとった元就に、舞い散る瓦礫の向こう側から半兵衛の声が聞こえてきた。
「ふ…ここは退くよ、潔くね」
豊臣軍が船を連ねて、沖へと去っていくのを元就はじっと見ていた。
「元就様、御采配を」
集まった毛利軍の将たちが背後でいっせいに跪く。
「追撃は不要。見張りを置き、他は生存者を捜索、回収せよ」
「はっ」
指示を受け、兵たちは去り、大鳥居を望む舞台には元就だけが立っていた。
潮の香りがする風が吹く。
「我を計るか…くだらぬ。
我を理解できるは我のみよ…」
元就は踵を返した。
厳島は取り戻した。我は何も失ってはおらぬ。
だが…なんだ、この焦燥は。
本陣に戻り、奥に座した元就は、床に視線を落としたまま、時が止まったかのようにじっと動かなかった。
傍に控えるのは志道のみで他は出払っていた。
押し黙ったままの元就の様子をたまに視界に捕らえては、また視線を戻す。
小さい頃からお仕えしてきたが、これほど不安気な元就様は幼少のとき以来だ。
冷徹な智将として名高いが、元就様は元来、誰よりも…
「報告いたします!」
兵のひとりがやってきた。
部屋で待つふたりが目を向ける。
「生存者・・・名…」
報告が続くが、今一番知りたいのは・・・
「神子殿はおられたか」 報告が終わり、黙したままの元就に代わり、志道が尋ねた。
「…生存者のなかに神子様のお姿はございませんでした。
しかしながら、戦死した者たちのなかにもお姿はなく…」
「引き続き探せ」 元就が口を開いた。
「亡骸でも構わぬ。見つけ次第、報告せよ」
「ははっ」 兵は頭を下げ、足早に去っていった
「志道、探索を任せる」
「御意。…失礼いたします」
一礼して、志道が部屋を出ていく。
ひとりになった元就は脇息にもたれ、額に手を置いたまま、動きを止めた。
髪が指の間をさらりと流れ落ちる。
時が止まったかのような静寂のなか、
「これしき…我は幾度となく乗り越えたわ」
自分に言い聞かすように小さく呟いた。