いつもの森。
村から逃れるように、わたしは時折この場所を訪れるようになっていた。
ふだんなら村の人たちは、めったなことがない限り、夜の森に入ろうとはしない。
まして、いま村で起こっていることを思えば、夜の森の、こんな奥深くに入ってくる人間なんているはずはない。
この暗い森の奥で、まるで自分の家のように振舞える存在なんて、きっとバラージュだけだから。
いや・・・・・・バラージュならば、どんなところにいても、それが自分の家であるかのように、堂々と振舞えるだろう。

「どうかしたのか、メアリ? 我の顔を眺めて、ぼーっとして」

「あ、い、いえ。なんでもないんです」

「なんだ。我に見とれていた、と言ってくれてもいいんだぞ?」

「ちょっと近いかもしれませんけど・・・・・・
 夜の森なんて、わたしには怖くてしかたないのに、バラージュは全然平気そうだな、って思って」

「ああ。闇を恐れるのは先が見えぬからだ。なにが潜むかわからぬからだ。
 だが我には闇の向こうが見える。なにが潜もうとも我を傷つけることなどできぬ」

「でも、だったら、きっと村の人たちもバラージュを傷つけたりはできないから・・・・・・
 森以外のどこでも同じですよね?」

「いや・・・・・・人はけものほど賢くないからな」

「え?」

「狼やフクロウは、我の力を知り、我に牙をむこうとはせぬ。
 だが人は、自らの力を知らず、我に刃を向けようとする。
 いかに羽虫を払うようなものとは言え、愚かな人間どもの相手をするのは面倒なものよ」

「・・・・・・」

たしかにパニックに陥った人たちは、なにをするかわからない。
恐怖のあまり、かなわないとわかっているはずなのに、武器を取る人もいるだろう。
そして、そんな降りかかる火の粉を払うのはバラージュにとっても面倒なこと、なんだ。
でも、それなら・・・・・・。

「どうして、わたしを助けてくれたんですか?
 それもきっと面倒なこと、だったんじゃ」

「我が成したいことは成す。そしてそのために障害があるなら取り除くだけだ。
 ありとあらゆることが面倒だというのなら、ジェラルドのように城にこもっているわ。
 いや・・・・・・ジェラルドも、いまは城にこもっているばかりではないのだったな」

「バラージュにも、お城があるんですか?」

「うむ。我の居城は、ここより遙か東の地にある。
 もっとも・・・・・・もう何年帰っていないか、我にもわからぬほどだ。
 荒れ果てていることだろうな」

「お城には、帰らないんですか?」

「そうだな・・・・・・帰っていないが、帰っているとも言えるか。今この時も、な」

「え?」

「この世のすべての闇が我の城。この世のすべての森が我のねやだ」

「だったらわたし、バラージュのお城に入る時も、お部屋に入る時も、ごあいさつしませんでした」

「そうだな。まあ良い。我の招いた客人だからな。その非礼、許すぞ」

「ありがとうございます」

「ふふっ・・・・・・ははははっ!」

「ふふふっ・・・・・・」

バラージュは、おかしそうに笑った。
それを見ると、わたしも心の底から笑えるようだった。
わたしを取り巻くもろもろから、いっとき解き放たれたように、自由に、思うままに、自然に。

「あっ、それじゃあ・・・・・・」

「ん? どうした、メアリ?」

「いえ・・・・・・そう考えると、ここはバラージュの・・・・・・男性の寝室ってことに・・・・・・?」

「ふっ・・・・・・はははっ! そうだな! たしかに、そういうことになるな!
 ははははっ! まったく、嫁入り前の娘が、はしたないことだな!」

「は、恥ずかしい・・・・・・」

「まったく、そんなことを言い出すとは、面白い娘だな!
 たしかにねやだとは言ったが、べつに寝台の一つもあるわけでなし。そう素直に受け取るな」

「は、はい・・・・・・」

「くっ・・・・・・はははっ! まあ、そういう娘は嫌いではない」

「そ、そんなに笑わないでください・・・・・・。本当に、恥ずかしいんですから」

「ふふっ・・・・・・ははははっ!」

「も、もうっ・・・・・・ふふっ・・・・・・」

バラージュは、心底愉快だというように笑った。わたしもつられるように笑っていた。
バラージュと一緒なら、いつもこうして自由でいられるように感じた。

「ははっ・・・・・・。まあ、かたくならず、くつろげ」

「はい」

「そうだ、もう少し奥に行くと、多少開けたところがある。そこの方がくつろげるだろう」

「ここでも平気ですよ」

「そう言うな。それほど遠くはないから、ついてこい」

「はい」

バラージュの歩みは軽やかだった。
笑いあったふたりの空気が、バラージュの足取りを弾ませているように。
わたしも、この夜の森を恐ろしいものとは感じなくなっていた。
バラージュの存在が、この世からすべての危険を取り払ってくれるかのように、わたしは安心しきっていた。

「きゃっ!」

足を取られて転んでしまった。
木の根にでも引っかけたのか、足首のあたりに血がにじんでいる。

「どうした、メアリ!?」

「な、なんでもないんです。ちょっと転んだだけで・・・・・・」

「すまん、メアリ。 我が少し浮かれていた。
 我の速度で気ままに歩かれては、ついてくるのは大変だったな」

「そ、そんなことないです。わたしがうっかりしていただけで・・・・・・」

「見せてみろ。怪我などしておらぬか?」

「い、いえ。なんでもないですから」

「いいから、見せろといっている」

強引にわたしを引き寄せて正面に立たせ、頭からつま先まで、ゆっくりと視線をめぐらせる。

「血が出ているではないか。なにがなんでもないだ」

「これくらい、なんでもないですよ」

「いいから、よく見せてみろ」

「は、はい・・・・・・」

ひざまずいてわたしの足に顔を近づける。
その様子は、忠誠を誓約する騎士のようだった。

わたしはなにもできず、ただ、されるがままでいた。
目の前の光景は、高名な画家が魂を込めて仕上げた一枚の絵画のようで、それを壊すことはできないように思えた。

「こんなに、血が出ている・・・・・・」

「・・・・・・」

「すまなかったな、メアリ。我のために血を流させてしまった」

傷口にバラージュの唇が触れる。
ただ、その感触だけがわたしを支配する。
傷の痛みなど感じなかった。
言葉にできないような安心感に包まれて、わたしはバラージュのなすがままに身をゆだねた。

「・・・・・・。血を流すのは、我のみでよい。
 痛みも苦しみもすべて、我が背負うべきものだからな」

「バラージュ・・・・・・?」

「んっ・・・・・・血は・・・・・・止まったか」

「バラージュ。わたしの血・・・・・・吸ってもいいんですよ?」

「なにを言っている、メアリ?」

「え、えっと・・・・・・。じ、自分でもよくわからないです。
 考えないで、口から出たというか、その・・・・・・」

「・・・・・・」

気がつくと、バラージュの目はわたしの顔に向けられていて・・・・・・。
でも、わたしの顔を見てはいなかった。
それは、はるか遠く・・・・・・。
ここではない、いまではないどこかを見ているような目だった。

「ご、ごめんなさい、バラージュ。
 なんか、変なこと言ってしまって」

「いや・・・・・・血を流した傷口に口をつけていたわけだからな。
 そう思うのもしかたはないな。だが、我の望みは、もっと・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・そろそろ戻るか、メアリ。送ろう」

帰ることなく、この夜の森にいつまでもいたい。
そう思いつつも、口には出せなかった。
闇に包まれてこそ、人は安堵して目を閉じ、眠りにつくことができる。
闇の中にこそ、真の安らぎがあるような、そんな気がした。