イリヤが村からいなくなってから数日。
わたしはずっと教会のなかで過ごしていた。
お祈り、掃除、とやることは毎日あるけれど、それでも自分の部屋に戻ると外を眺めることが多くなった。
青い空をよぎって飛んでいく鳥。
どこまでも自由に、自分の思うままに飛んでいけたら、わたしはどこに行くだろうか。
夜、村から逃れるように、わたしの足は森へと向かっていた。
夜の森は、何者をも寄せ付けない空気をたたえている。
危険な夜の森だけれど、もはやここは、わたしにとって危険な領域ではなくなっていた。
バラージュがいれば、獰猛な野獣も危険な魔物も近づくことさえできない。
危険な森もわたしには安全な憩いの場のように感じられた。
「バラージュ?」
いつもならすぐに姿を現してくれるのに、今日は人影はなかった。
「バラージュ!」
なにか用事でもあったのだろうか。
不安になって、あたりをきょろきょろと見回す。
「呼んだか、メアリ?」
「きゃっ!?」
うかつだった。やはり、夜も森は危険だ。
後ろから不意に、バラージュの気配を感じる。
わたしは瞬く間に、その力強い腕で後ろから抱きしめられていた。
耳のすぐ後ろに、バラージュの唇の気配を感じる。
「メアリ・・・・・・」 耳もとでささやく声。
「バ、バラージュ・・・・・・。な、なにを・・・・・・」
「あまりに無防備だったから、つい、な」
「つい、って・・・・・・」
「いっそ、このまま・・・・・・」
顔がさらに近づく気配を感じた。吐息が、首筋にかかる。
夜の森の冷たい空気の中、温かい吐息だけが生命を感じさせる。
背中に伝わる感触が、力のこめられた腕が、存在を強く意識させる。
「バラージュ・・・・・・」
「我は 『貴族』。 乙女の血を吸うのがその業だ」
「・・・・・・」
「メアリ・・・・・・おまえの血を、我に・・・・・・」
「やっ・・・・・・やめてください!」
わたしは、ちからいっぱい抵抗した。
とはいえ、バラージュの力の前に、わたしの力でどうこうできるはずもない。
「そう暴れるな。暴れると、うまく歯を立てられん」
「やっ・・・・・・やだっ!」
「メアリ・・・・・・。我の渇きを、潤してくれ」
「ああっ・・・・・・」
わたしの首に、バラージュの唇が触れる。
ああ、とうとう・・・・・・。
「くっ・・・・・・ははははっ!!」
「え?」
「ははははっ! 予想どおり・・・・・・いい抵抗ぶりだったぞ!」
「まさか・・・・・・からかったんですね!?」
「ああ、あんまり無防備な背中だったんでな。
ついつい、からかいたくなった。許せよ」
「もうっ! つい、じゃないですよ」
「だが・・・・・・無防備なお前も悪いぞ、メアリ。
もっと人を疑い、我が身を守ることも覚えなければな。
世界には我のような心根の正しい者ばかりではないぞ」
そう言うと、自分の言葉がおかしかったようで、もう一度笑った。
「まったく・・・・・・。そんなに楽しそうにされると、怒る気になれないですね。
でも本当に驚いたんですから」
「ああ、すまんすまん。もうしないから、許せ」
そう言ったバラージュは、本当に愉快そうだった。
バラージュは 『貴族』 だから、人間にはできないいろいろなことができる。
姿を消したり、空を飛んだり。
「・・・・・・。 バラージュ、空を飛ぶってどんな感じなんですか」
「急にどうした?」
「いえ、ただ、ちょっと・・・。
空を自由に飛べたら気持ちいいだろうなと思って」
「フム・・・ ためしてみるか?」
「え?」
バラージュはわたしの手を引き寄せた。
次の瞬間、わたしの身体はすっぽりと彼のたくましい胸におさまってしまう。
と、同時に耳元で風がなった。
「っ!」 あまりの驚きに声も出ない。
月が近い。
わたしの足元に森があった。
「う、そ・・・」
わたしの足元に地面はない。
「どうだ、空にいる気分は」
「す、すごい・・・」
夜風が気持ちよかった。村が小さく見える。
わたしの生まれ育った村。わたしの知る世界のすべてがこんなにも小さいものだったなんて。
その小さな村にいるわたしの悩みなど、ほんのささいなものに思えた。
夜風が心にまで吹き抜けて、いままで悩んでいたものが、晴れていくようだった。
「月に手が届きそう。
ありがとう、バラージュ」
「この高さに臆しないとは、本当に大胆な姫君だ」
間近でバラージュが微笑む。
こんなに明るい笑顔を見たのは、初めてかもしれない。
夜の闇を端まで照らすような笑顔。
驚いたことなど忘れて、わたしも一緒になって笑っていた。
夜の森も、入ってみれば怖いばかりではない。
バラージュと一緒だから安全だったんだとわかっていたけれど、そう思った。