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首都から東にむかうこと二週間、そこからさらに北に十日ほど旅した辺境の地に、その村はある。
もっともこれは馬で移動した場合の話で、徒歩ならば到着までにようする時間はさらに延びるだろう。
険しい山々に囲まれたこの村は、閉ざされた地だ。
外界との接触は、極めて限定されている。
騎士団は当然のこととしても、徴税官すら派遣されていない。
統治は村人が「領主様」と呼ぶ、正体不明の「貴族」によってなされているらしい。
「らしい」と書いたのは、私がこの村に来て以来、一度もその「貴族」の姿を見たことがないからだ。
そのようなものは実際は存在しない、と語る村人すらいる。
村の現実の統治―――統治というほど大袈裟なものではないが―――は、村長と自警団とが担っている。
そして、例の件だが・・・・・・現在までのところ、その兆候は現れていない。
もたらされた情報が真実かどうか、引き続き観察する必要がある。
いずれにせよ、このような辺境にまで教会の教えが届いているのは、とても喜ばしいことだと思う・・・。

 教会の娘 Dの手紙より。
 

「・・・・・・・・・」

この日の朝もわたしは、神に祈りを捧げていた。
そう。これから起こる出来事など、なにも知らずに。
それとも、知っているのに、目を閉じ、耳をふさぎ、気づかないようにしていたんだろうか・・・。

「・・・・・・ふわあ」

(ああ、いけない!? 神様の前であくびするなんて!)
慌てて居住まいを正す。
昨日の夜、夢を見たせいなのか、今朝はどうもぼーっとしている。

不思議な夢だった。
金色の長い髪の少女が美しいらせん階段を上へ上へとのぼっていた。
紅いドレスをまとって、ルビーがちりばめられた髪飾りがさらさらとなびく金髪を飾っている。
らせん階段をのぼりつめた少女は立ち止まった。目の前には輝く大きな扉がそびえたっている。

(わたしの上の冠はいまだに重い)

少女はルビーが連なった髪飾りを外し、そっと足元に置いた。

(・・・・・・)

つぶやいた声は聞きとれなかった。
そして扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

(いけない。お祈りに集中しなくちゃ)

「・・・・・・メアリ? どこにいるの、メアリ?」

(あっ、この声は・・・・・・)

「ああ、メアリ。ここにいたのね」

「はい、ダニエラさん」

私を捜していたのは、ダニエラさんだった。
とても綺麗な人だ。この教会で二番目に偉くて、だから、教会の『教え』にも詳しい。
でも戒律にはあまり厳しくなかった。
もちろん本当にいけないことをするわけじゃない。
村の人から戴いたおいしいお菓子をこっそり分けてくれたりだとか、決められた入浴の時間を少し長めに許してくれたりとか・・・。
そういうふうに、わたしたちが心のゆとりを感じられる心配りをしてくれる人。
私の目標。憧れの先輩。

「どうしたの、メアリ。わたしの顔になにかついてる?」

「い、いえ・・・・・・なんでもありません。
 えっと、ダニエラさん? わたしに、なにかご用ですか?」

「ええ、村長のお屋敷まで、この手紙を届けてほしいの」

「はい、わかりました。すぐに行ってきます」

「ええ、お願いね」

(村長さんのお屋敷か。行くのは、半月ぶりくらいかしら・・・・・・)

お屋敷は、教会からは広場を挟んだ反対側にある。
私の足でも5分とかからない距離だ。
ここは首都から遠く離れた辺境の村だから、あまり大きくはない。
30分もあれば、ぐるっと一周できてしまうだろう。
でもわたしはこの村が好きだ。
だって、自分の生まれ育ったふるさとだもの。

「・・・・・・着いた。村長さんのお屋敷だわ」

村長さんは、この村で一番のお金持ちだった。
まさに 『お屋敷』 と呼ぶにふさわしい立派な住まいだ。

(ここに来ると、いつも気おくれしちゃう・・・・・・)

玄関の前に立って、深呼吸。
それから意を決して、呼び鈴を鳴らす。

「・・・・・・・・・・・・」

「いらっしゃい、メアリ」

「あっ、イリヤ・・・・・・」

出迎えてくれたのは、使用人の女性じゃなかった。
村長さんの娘――わたしの親友でもある――イリヤだった。

「どうしたの? そんな、驚いた顔をして、クスクスッ」

「だって、まさかイリヤが出迎えてくれるなんて思わなかったから・・・・・・」

(あっ、いけない。今日は遊びにきたわけじゃないんだわ)

屈託なく笑うイリヤにつられて、つい、いつもの調子でしゃべってしまった。

「失礼しました」  急にかしこまってお辞儀する。

「村長さんに、教会の手紙を届けにきました」

「そうなの? まあ、とにかく入って」

「はい、失礼します」

「いま、お茶でも用意させるわね」

「いいえ、おかまいなく。用事を済ませたら、すぐに失礼しますから」

「堅苦しいなぁ、もう」  イリヤは苦笑する。

「今日は教会のお使いですから」

「お父様はいま仕事中だから、来るまで少し時間があると思うわ。それまで、話でもしていましょ。
 ただし、いつもの調子でしゃべってよ? でないと調子狂っちゃうわ」

「そういうことなら・・・・・・」

よそ行きの態度をあらためて、私は微笑んだ。

「ホント、さっきはビックリしちゃった」

「そうそう、それでこそあなただわ。
 ねえ、どうしてわたしが出迎えに出られたと思う?」

「うーん、どうしてだろう・・・・・・?」

ふだんなら、お嬢様のイリヤが自分で訪問者を迎えることなんて、あるわけがない。

(わたしが来るのがわかっていた? でも、どうして・・・・・・?)

・・・・・・そこで不意に、わたしは奇妙な錯覚へと陥った。
いつか、どこかで、今と同じ会話、同じ思考を繰り返していたような・・・・・・。
あるはずの無い記憶へと辿り着く、もどかしい感覚。
だけどそれは、ただの思い過ごし・・・・・・。

「うーん、わからないわ。降参!」

「ふふっ、答えは簡単よ。二階の窓から、ちょうどあなたの姿が見えたの」

「なあんだ」  知ってしまえば、なんてことない話だった。

「実は未来がわかるとか、そういう答えを期待したのに・・・。
 ちょっとガッカリ」

「うふふふふふっ。
 あっ、いまお茶のお代わりを用意させるわね」

「ありがとう。でも、ほんとに今日は遊びにきたわけじゃないんだけど・・・・・・」

「遠慮しないでいいのよ。なかなか降りてこない、お父様が悪いんだから」

紅茶とイリヤお手製のクッキーをお供に、わたしたちはたあいのない会話を愉しんだ。
教会での生活も好きだけれど、イリヤと過ごす時間はとてもリラックスできて、一番楽しい。

「ねえ、メアリ? あなたは、好きな人とかいないの?」

「そ、そ、そんなのいるはずないじゃない! だいたい、わたしは教会の人間で・・・・・・」

「あら。教会の人だって、恋くらいしてもいいと思うけど?」

「ダメよ、ダメ。そんなこと、神様がお許しになるはずがないもの」

「そうかなあ・・・・・・
 ダニエラさんなんて、村の男の人たちからすごい人気よ? あの人さえ、その気になれば、よりどりみどり!」

「ちょ、ちょっと、イリヤったら・・・・・・」

「恋って、とっても素晴らしいものよ。あなたも絶対にするべきよ!」

「うん・・・・・・」

(イリヤ・・・・・・誰かに恋しているのかしら?)

「たとえば、ほら、オーギュスト先生なんてどう?」

「えっ、オーギュスト!?」

「歳は先生のほうが上だけど、あなたの幼なじみでしょ?
 けっこう生徒の間で人気あるのよ。
 オーギュスト先生みたいな知的な男の人って、他にはいないタイプだもの」

「うーん・・・・・・わたしにとって、オーギュストは昔からいいお兄さん、って感じなんだけどな」

「お兄さん、かあ・・・・・・じゃあ、ヴィクトルは?
 人を寄せつけない雰囲気があるけど、ひそかに憧れてる子も・・・」

「おやおや? かわいい天使たちが、ボクの噂をしているみたいだね」

「あっ、リチャード・・・」

「やあ、メアリ。ご機嫌うるわしゅう」

現れたのは、この家の長男のリチャードだった。

「素敵なレディの笑い声がすると思ったら、そうか、キミが遊びにきていたんだね。
 うれしいよ、メアリ。今日ここでキミに逢えるだなんて」

「ちょっと、お兄ちゃん! 邪魔だからあっち行ってて。
 わたしは彼女とふたりきりで話したいんだから」

「ああ、我が妹よ。それはボクだって同じ気持ちさ。
 ボクも彼女と話したい。独り占めするなんて、いけないな。そうだよね、メアリ?」

「えっ!? あ、は、はい、あの・・・・・・」

「ずいぶんと騒がしいな」

「・・・・・・!」 リチャードとイリヤの表情が固くなる。

「あっ・・・・・・」

「待たせたね、メアリ」

「い、いえ・・・・・・村長」

部屋の空気が一気に張り詰めたものになった。
村長――ヤコブさんは特別気難しい人じゃない。
でも会うと、いつも威圧感みたいなものを感じてしまう。
いつも冬の寒さに耐えているような、不機嫌そうに見える顔をしているからだろうか?
たぶん、村の人間でも笑顔を見たことのある人はいないだろう。

「リチャード、イリヤ。おまえたちは下がっていなさい」

「はい、お父様・・・・・・」

イリヤがこちらをチラッと見た。

(だいじょうぶ)
不安そうな顔の彼女に軽く頷いてみせる。
本当は、安心させてほしいのはわたしのほうだったけれど。

「じゃあ・・・・・・またね、メアリ・・・・・・」

「ええ」

ふたりが部屋を出ていき、あとにはわたしと村長さんだけが残った。

「さてと、メアリ。それで、私に手紙だとか」

「あっ、はい。ダニエラさんから村長へのお手紙です」

手紙を村長さんに差し出す。

「ふむ、どれ・・・・・・」

村長さんは無言で文面に目を落としている。

(なにか書いてあるんだろう? 気になるなぁ。でも、わたしがそんなことを聞くなんて、すごく失礼だし・・・・・・)

「・・・・・・気になるかね? 手紙の内容が」

「あっ!? い、いえ、そんな・・・・・・」

「べつに秘密にするようなことでもない。
 教会の修繕のために、村から寄付が欲しいそうだ。あの建物も、できてからずいぶん経つからな」

「寄付、ですか」

「ああ、そうだ。とは言うものの、村にも余裕があるとは言い難い状況なのだよ」

「はい・・・・・・」

「この件は、教会と村の代表者とで話し合う必要がありそうだ。帰ったらそう伝えておいてくれ」

「は、はい。わかりました」

「ところで・・・」

「は、はい?」

「最近、幼なじみのふたりとは話したかね?」

「ヴィクトルとオーギュストですか?」

「そう、そのふたりだ」

わたしと、先生をしているオーギュスト、村はずれの森に住んでいるヴィクトルが幼なじみだということは、村の人なら誰でも知っている。

「ええ」

「ほう・・・・・・。ふたりとも元気にしておったかね?」

どうしてそんなことを聞くんだろう? という疑問がわたしの顔にはっきりと浮かんだのか、村長さんは言葉をついだ。

「いや、オーギュスト先生とは週に何度も顔を合わせるが、ヴィクトルのほうは・・・・・・村の中でもめったに見かけない」

「人付き合いが苦手なんです、ヴィクトルは」

「村はずれの森で暮らしているんだったな、彼は」

「はい・・・・・・。あの、ヴィクトルがなにか?」

「いや、特になにがとうどいうこともないのだが。
 村の住人の生活に責任を持つ立場の人間として、ヴィクトルの暮らしぶりも聞いておきたかっただけだよ。
 あのあたりの森は、村人もめったに足を踏み入れないし、危険な獣もいるようだからな」

「はい。わたしも村の中心に引っ越してきたらどうかと思っているんですけど・・・・・・」

「それは良い考えだが、彼には彼の考えもあるだろう。無理強いはできんよ」

「そうでしょうか?」

「ああ、ヴィクトルならば心配あるまい。狩の腕も達者だというしな」

「はい・・・・・・」

「ところで、メアリ。おまえはこの先、どうするつもりだね?」

「この先というと・・・・・・将来のことでしょうか?」

私は教会で育った。そこで寝起きして、学校へも通った。

「できることなら、このまま教会で・・・・・・。
 神に身を捧げて生きていきたいと思っています。
 まだ正式に許可を頂いたわけではないので、どうなるかはわかりませんけど」

「おまえの信仰心の篤いことは村でも有名だ。教会も喜ぶだろう」

「そうだといいんですが」

村長さんは、手にしていたダニエラさんの手紙を折り畳んだ。

「今日はご苦労だった。気をつけて帰りなさい」

お屋敷を出て教会まで戻る道すがら、わたしはふたりの幼なじみのことを考えていた。

(ヴィクトルとオーギュスト・・・・・・オーギュストはついでで、聞きたかったのはヴィクトルのこと?)

たしかに、村長さんは彼のことが気になっている様子だった。

(なにか問題を起こすんじゃないかって、心配しているのかしら?
 それとも・・・・・・『イリヤのムコに迎えたいと思っている』・・・・・・とかだったら、いいんだけど。
 さすがにそんないい話、あるわけないか)

歩きつつ考え、考えつつ歩く。
そのときだった。

(・・・・・・えっ?)

不意に気配を感じた。背後から誰かに見られているような、そんな感覚。
心臓がどきどきする。

「・・・・・・誰?」

振り返ったが、誰もいない。隠れている様子もない。

「わたしになにか用ですか? 用があるなら、出てきてください」

反応はなかった。

(おかしいな。たしかに誰かに見られている気がしたのに)

「・・・・・・・・・・・・」  私の視線は遠くに伸びる。

道の先。誰もいない。さらに伸びる。ずっと先。やっぱり誰もいない。
家々の屋根を飛び越し、森の木々を越え、さらに山の上へと伸びていく。
それでも誰もいない。

「・・・・・・気の、せい?」

視線の先には、村はずれから伸びる山の尾根と、その途中の山腹にはぽつんと立つ古城があるだけだった。

(たしかに『見られている』気がしたんだけど。 もしかしたら、あのお城から誰かが・・・・・・?
 ・・・・・・ううん、まさかね)

それはあり得ないことだった。
『領主様』 が住んでいるというあのお城は、誰もが近づくことを禁じられている場所で・・・・・・
実際のところは、ただの廃墟に過ぎないのだという、もっぱらの噂だった。

「そう、誰もいない。気のせいよ。気のせい・・・・・・」

わたしは家路を急ぐ。
なにかがひたひたと後ろから迫ってくるような気がして、足どりは次第に速さを増していった。

「誰もいるはず、ない」

まだ昼間だというのに、夜道をたった一人で歩いているような、そんな孤独と恐怖を感じて、わたしはいまにも駆け出しそうになっていた。