私たちが夏のバカンスを過ごしているオーガスタの別荘は風光明媚なところにたっています。 聞いたところによると、この別荘は軍の幹部をされているお兄様のものなんですって。 近くには葡萄園やテニス場もあるし、海にも近くて、出かけるところにはことかきません。 別荘の外だけじゃなくて、手入れが行き届いた庭も 様々な種類の木々が涼しい木陰をつくって、とても気持ちがいいの。 夏の強い日差しをさえぎってきらめく緑が目と心を癒してくれるので、 勉強の合い間の気分転換によく散歩しています。 ん? その日もいつものように散歩していた私はふと足を止めた。 納屋の近くに誰かがうずくまっている。 どうかしたのかしら。 「あの・・・気分でも悪いんですか?」 !! 声をかけた瞬間、男の人の背がビクっと震えた。 何?! なんなの? 予想外の反応に驚いて見開いた私の目は、振り返った男の人越しに炎をあげている 書類らしき束をしっかりと捕らえていた。 なにか変。普通じゃない・・・。 こちらを見上げる男のただならぬ眼差しに気圧されて思わず一歩あとずさった、その 次の瞬間、私は本能的に身をひるがえして逃げだした。 「! きゃ・・・」 後ろからいきなり腕を掴まれ、強引に引き戻されてよろめく。 叫ぼうとした声は、くぐもったうめき声に変わった。 おなかに痛みが走り、目の前が暗くなっていく。 体が二つ折りになって崩れ落ちる感覚を最後に私は意識を手放した。 |
「ん・・・」 それからどれくらいたったんだろう。 パチパチという音に気付き、目を開けた私の視界に飛び込んできたのは 一面の炎の海だった。 「きゃあっ! ゴホゴホッ」 叫んだ拍子に思いっきり煙を吸い込んで激しく咳き込む。 け、煙が・・・息ができない。 そのあいだにも、すごい勢いで火が燃え広がっていく。 もしかしてここで死んでしまうの・・・? そんな思いが頭をよぎったとき、ドアを激しく叩く音が聞こえた。 「誰か居るのですか!?」 「・・・ゲホッ、ゲホッ・・・ 助けてっ! 助けて下さいっ!!」 「エリカ殿?!」 しばらくの沈黙の後、バァーン! とものすごい音がしてドアが蹴破られ 煙の向こうにかすかにシルエットが浮かび上がった。 「エリカ殿! しっかりして下さい」 「う、うーん、ナオ・・ジ様?」 床に伏している私のもとに駆け寄ったナオジ様は素早く私の背中に手を回して 抱き起こすと、ご自分のハンカチを私の口に当てがってくれた。 「大丈夫ですか? ドアまで一気に走ります」 かすかにうなずいたとき、突然ベキベキッという音とともに火に包まれた柱が 崩れ落ちてきて・・・ もう、駄目っ!! 「くっ」 ・・・。 こわごわと目を開けるとナオジ様が盾になって私をかばってくれていた。 「ナオジ様!」 「平気・・・です。 しっかり掴まっていてください。行きますよ」 端整なナオジ様の顔が一瞬ゆがんだのが見えたけど、その直後、 肩を抱く腕に力がこもり、私たちは炎の海へつっこんでいった。 ・・・・・。 私たち・・・助かったの・・・? 炎ではない外の明るさがちらっと映って、ふたたび私の視界は闇に包まれた。 |
次に目を開けたのはベッドの上。 「お気づきになられましたか?」 女の人の声が遠く聞こえて、私はその方向にぼんやりと頭をめぐらせた。 意識がはっきりしてくると、ここはオーガスタの別荘の私のベッドの上で、 声をかけてくれたのは、メイドだというのが分かった。 彼女は花瓶に花をさしていた手を止めて、気遣うように優しい調子で話しかけた。 「煙を吸われていたようですが、大事はないそうです。 あんなにすごい火事だったのに火傷がないのは奇跡的だと お医者様が驚いてらっしゃいましたよ」 そう言って微笑んでみせた表情に、助かったんだという思いが湧いてくる。 でもまだぼんやりしているのか、自分のことなのに他人事のように聞いていた。 なにかもっとほかに大事なことがあったような・・・。 ! 突然弾かれたように私は飛び起きた。 「ナオジ様! あの、私と一緒にいた方は?!」 「・・・申し訳ありません。私はそちらの方のご容態は存じ上げておりません。 あっ、お待ちください!」 彼女が答える前にためらう間があったのを私は見逃さなかった。 反射的に私の体は自分でもびっくりするくらいの早さでベッドから飛び出し、 止める声も聞かず裸足で駆け出していた。 ナオジ様の部屋のドアを急いでノックしたけど返事はない。 もう一度ノックしたあと、待ちきれずドアを開けて中に走り込んだ。 「ナオジ・・・様?」 ベッドの上で、ナオジ様は目を閉じて静かに横たわっていた。 陽が差して部屋は明るかったけど、あまりにも静かすぎて・・・怖い。 「・・・」 私はそろそろとベッドに歩み寄っていった。 普段きっちりとひとつにまとめられている長い黒髪は今はゆるやかに 白い枕の上に広がっていて、そんなナオジ様はうっとりするほどきれいだった。 目の前に広がる光景は、まるで鮮やかに時だけが切り取られた一枚の肖像画のようで、 幼いときに見たモノクロームの 「眠り姫」 を思い出させたけれど、 そのときの私はこの静かすぎる美しさがただひたすら怖かった。 光に影があるように、美しさの裏には残酷な現実がひそんでいるようで、 頭にこびりついた最悪の事態を懸命に否定しながら私は手を差しだした。 白い包帯が痛々しい。 ・・・。 震える指先がナオジ様の頬に触れ、命が息づいていることを確認したとき、 私はすべての力が一気に抜け落ちて、その場にへたりこんでしまった。 「ナオジ様・・・」 張りつめていたものが切れて、ぽろぽろと涙があふれてくる。 ・・・っ! ベッドの端に突っ伏して泣きじゃくり、やがて疲れて 意識がもうろうとしかけた頃、何かが優しく私の頭をなでた。 「ナオジ様!」 「エリカ殿・・・ご無事ですか」 ナオジ様はかすかに微笑んだ。 私を映しだした黒い瞳に安堵の色がにじみでている。 ! どうしてこの方は・・・。枯れ果てたと思っていた涙がまたあふれだした。 ご自分のほうがよっぽどひどい怪我をされているのに。 涙に詰まりながら私は声をしぼりだした。 「私は無事です。ナオジ様がかばってくださったから。 ごめんなさい! 私のせいで・・・本当にごめんなさい! ナオジ様に何かあったら私・・・」 そのときあたたかい手が私の頬に触れて、 涙に濡れた顔を上げた私にとても優しい眼差しを注ぎながら、ナオジ様は言った。 「あなたが無事でよかった。 自分は大丈夫。 だから泣かないでください。 あなたに泣かれると自分は・・・どうしていいのか分からなくなる・・・」 最後はひとりごとのようにつぶやくと、ナオジ様の瞳はふたたび閉じられた。 力を失った手が頬からゆっくりとはなれていく。 その手を握りしめると、私は微笑んだ。 「はい。ナオジ様、もう泣きません。 ・・・またきますね」 握り締めた手をそっとベッドに戻すと、私はゆらゆらと立ち上がった。 涙で体力も気力も使い果たしたのか、足もとがふらつく。 運良く途中で誰にも出会わず、自分の部屋に戻ると、そこには 部屋を飛び出す前にいたメイドがまだいてくれて、心配げに私の顔を見たけど 何も言わなかった。 そのままベッドに倒れこむと、気を失ったかのように意識が途絶えた。 ・・・。 今日、私はイヤというほど思い知ってしまった。 ナオジ様の容態を知って愕然としたのは、私のせいで怪我をさせてしまった・・・ それ以上に、あの方を永遠に失ってしまう、その現実が目の前に迫ってきて怖かったから。 今まで当たり前のようにそばにいてくれたから気付かなかった。 もう二度と会えないかもしれないと本気で思った時に初めて気がついたこと。 私は、ナオジ様をお慕いしている。 |