「エリカ殿、次の日曜日に自分と、海へ行きませんか?」

ナオジ様がそう誘ってくださったのは、9月に入って少し過ぎた頃でした。
8月中は火傷のせいでベッドに横になっていらっしゃる時が多かったけど、近頃は
だいぶよくなられたみたいで、身を起こしている時間が多い。
今も上半身を枕にもたせかけながらも、顔色はとってもよくて、このご様子だったら
別荘から帰るころには、きっと普段どおりに過ごせるようになるわ。
ナオジ様が読み終えた本を図書室に返すためにまとめていた私は
内心ほっとしながらも手をとめて、ベッドのほうへ顔を向けた。

「潮風がお体に障りませんか?」

少しかしげた黒い瞳が私の視線を受け止めて、優しい眼差しを返す。

「あなたが毎日来てくださるおかげでよくなりました。
 別荘を去る前に海を見ておきたいのです。一緒に行きませんか?」

そこまで言われれば、もちろん私に断る理由などあるはずがない。

「はい、喜んでご一緒します」

それを聞いたナオジ様はベッドの上でうれしそうに微笑んだ。

「楽しみにしています」

 * * * * * * * 

そして日曜日。
コンコン 部屋にノックの音が響いた。

「支度は整いましたか?」

「はい、今いきます」

はやくしなきゃ。ナオジ様が待ってらっしゃるわ。

「すみません。お待たせしました」

少し時間がかかってしまったけれど、ナオジ様は気を悪くしたふうもなく、
外を見ていた視線を戻すと、いつもと同じ穏やかな口調でこたえた。

「お気になさらず。
 女性を待つのは、男の礼儀ですから。
 では行きましょうか?」

切り立った崖の上で、ナオジ様はじっと海を見つめていた。
その目は遥かなものに思いを馳せているようで、私はナオジ様が急に遠い存在に思えた。
そうだ・・・来年は卒業しているから、もういらっしゃらないかもしれないんだ。
黙っていると不安ばかりが膨らんでしまうから、話しかけずにはいられなかった。

「どうしたのですか? 遠い目をされて・・・」

ナオジ様はいったん私に目を向けたあと、ふたたび海へと視線をやった。
そして感慨深い面持ちで、おもむろに口を開いた。

「・・・この海は、自分の祖国とつながっています。
 遠い異国の地で、祖国に対する思いは、日々深くなっていきます」

「・・・どのような所なのですか?」

形のない不安が胸のなかでじょじょに重くのしかかってきた。

「クーヘン王国と比べれば、まだまだこれからの国です。
 周りは全て海に囲まれて・・・。 島国故、閉鎖的な部分も残っています。
 今は軍部が主導権を握り、内外共に不安定な情勢なのです。
 でも・・・、敵はそればかりではありません。
 ・・・自分が幼い頃、大きな地震がありました。建物は壊れ、人々は焼き出され・・・。
 自然とも、戦わなくてはならないのです」

「・・・・・・」

「自分は、まず国民の幸せの為に、何をすべきかを考えるべきだ、と思うのです。
 世界の領土に目を向けるよりも、まず内から固めていくべきだと・・・」

知らないうちに力がこもってきた口調に気付いて、ナオジ様ははっと口をつぐんだ。

「あ・・・。また自分一人で、語ってしまいました。
 すみません。あなたといると、ついつい口数が増えてしまう・・・。
 本当に不思議な方ですね。あなたは・・・」

「ナオジ様・・・」

「・・・風が出てきました。そろそろ帰りましょう」

「はい・・・」

海沿いを歩きながら、私は軽く唇をかみしめた。
なんか考えさせられちゃったな。
ナオジ様はひとりで異国にいらして、とても心細いはずなのに
祖国の行く末を心配していらっしゃる。
それなのに私ときたら・・・。

ナオジ様のかかえる不安に比べたら、私のなんて単なるワガママだわ。
よし! 学園にいらっしゃる間、できるかぎり力になって差し上げよう。
私がナオジ様を支えてさしあげるのよ!

心の中でぐっと握りこぶしをつくって、そんな決意を固めていたとき、

「・・・。エリカ殿?」

「あ、すみません。なんでしょうか」

あわてて顔を上げた。
つい考えにふけってしまって、ナオジ様のお声に気付かなかったみたい。
ナオジ様は足を止めて、私のほうへ向き直った。

「あなたにはとても感謝しています。
 動けない間、本を借りてきていただいたり、お見舞いに来てくださったり。
 何かお礼をしたいのですが、欲しいものなどありますか?」

思いがけない申し出に、私はとっさに手を振ってさえぎった。

「そ、そんな、とんでもないです!
 私のほうこそ命を助けていただいたのになんのお礼もしていなくて。
 そうだわ! ぜひお礼をさせてください」

「え? 結構ですよ。当然のことをしただけですから」

「それでは私の気がすみません。
 せっかくのバカンスも私のせいで台無しにしてしまったのに・・・」

しゅんとうなだれた私を見て、ナオジ様は少し考え込んだ。

「では・・・、自分のために上等な亜麻布のシャツを作ってくれますか?
 ただし、縫い目も細かい針仕事もなしで」

え? それって・・・。
目を見開いている間にナオジ様はさらに言葉を重ねた。

「楓の小道でそれを織ってください。
 織りあがったら楓の花のカゴにいれて、向こうの乾いた井戸で洗ってください。
 水が湧き出ることも雨の雫がふりこむこともない井戸で。
 洗ったら、あそこのイバラに干してください。
 アダムが生まれた頃から芽が出ていないイバラですが」

「それでしたら・・・」  自然と言葉がすべりでた。

「亜麻を育てるために1エーカーの土地を見つけてくれますか?
 波打ち際と海岸の間に。 そしてそこを子羊の角で耕してください」

ナオジ様の口元がわずかにゆるみ、私の問いにこたえる。

「では、種を見つけてきてくれますか。
 ヒースしか生えていないような北の荒地から」

歌のように言葉が紡ぎだされていく。
何も乗っていない手のひらを差し出して、私は言った。

「この一粒の種を土地一面に蒔いてください。
 実ったら皮の鎌で刈り取って、シジュウカラの羽で束ねてください。
 それを全部、ひとつの袋に集めたら、蝶の背にのせて
 私の家まで運んでいただけますか?」

いまやすっかり戸惑いの消えた私はいたずらっぽく微笑んで、ナオジ様を見上げた。

「あなたがそれだけの仕事をなしとげられたら
 私のもとへ来て上等な亜麻布のシャツを受け取ってください。
 その時こそ、あなたは私の・・・」

急に言いよどんだ私を見てナオジ様は目を細めた。

「真実の恋人になる」

「!」

私の言葉を引き継ぐと、ナオジ様は、まるで騎士がそうするかのように私の手をとって、
指先に口づけをおとした。

え?
えっ?
え〜〜〜〜〜〜っ!?

い、いま何が起こったの!? 
目を丸くしてすっかり硬直している私の手をとったまま、ナオジ様はうやうやしく言った。

「文学の心を磨き、神秘的な女性とあなたは謳われつつあるとか・・・。
 聡明なあなたに今の無礼を許していただければそれが自分へのプレゼントです。
 許していただけますか?」

「は、はい! もちろんですっ」

急に顔が火照って、真っ赤になった私のそばで、黒い瞳が揺れ、にっこりと微笑んだ。

「ありがとう。では行きましょうか」

  * * * * * *

1週間後、私たちは別荘から学園へと帰ってきました。
ふ〜 楽しい夏休みが終わってしまった。
しょうがない、新学期から勉強に励むか!
明日は進級式。2年次が始まります。





お読みいただいてありがとうございます。
後半のナオジと主人公の会話について説明します。
あれは 「スカボロ・フェア」 というイングランドの民謡で、問答歌です。
遠い異国を感じさせる不思議なメロディと、謎めいた歌詞が心をひきつけます。

スカボロー・フェアについて知りたい方は こちら へ。
なお、IEで見ている方は自動的にBGMが鳴りますので、ボリュームにご注意ください。

  ’05.4.10