時はめぐって、桜のほころぶ季節。
「エリカ殿。曜日ですが、
シュトラール補佐委員として自分を手伝ってくれませんか?」
ナオジ様の言葉が終わるか終わらないかのうちに
私は頭の中で素早くスケジュール帳をめくっていた。
うん、その日の予定は入ってないわ。となれば答えはひとつ。
顔を上げて、にっこりと微笑んだ。
「喜んでお手伝いします」
「ありがとう」
うれしそうに目を細める表情にいつもながら見とれていたそのとき・・・
キャ〜!! ドン
まるで狙いすましたかのように何かが私たちの間にわりこんできた。
「ぶつかってごめんなさぁい! 私ってホントにドジですぅ!」
げげっ! マリーン!?
「あれ? ・・・今二人で何話してたんですかぁ?」
「な、なんでもないわ。それではナオジ様、失礼いたします」
首をかしげて見上げるマリーンの肩を両手で押し出しつつ、あわててその場を後にした。
ごめんね、マリーン。でもこれだけは譲れないわ。
日曜日。
ナオジ様は朝からずっと山積みになった会議の資料に目を通している。
お休みの日なのにシュトラールクラスの方は大変。
書類に埋もれたナオジ様を目の端に見ながら、私はカップをトレイにのせた。
「はい、お茶をどうぞ。飲みやすいように少々ぬるめにしました」
「あ、ありがとう。 !? ・・・また・・・」
「え?」
微笑んだ眼差しに影がさして、ナオジ様は急に考えこむように口に手をやった。
「・・・やはり以前にも、あなたとこうして過ごした。
・・・遠い昔・・・ どこかで・・・」
???
その声は私に、というより、自分に向けて言っているようで・・・。
はっと我にかえったナオジ様は取り繕うかのように微笑んだ。
「・・・いえ。 ・・・でもよくわかりましたね。自分が猫舌だということが」
「あ・・・本当・・・。 どうしてかしら・・・?」
黒い瞳が私を映して、静かに瞬き、
やがて考え深げな表情のまま、ぽつりとつぶやいた。
「・・・・・・。 自分は夢を見ます。同じ夢を繰り返し・・・」
「どんな夢ですか?」
「一人の少女が今のあなたのようにいつも少し冷ましたお茶を自分に煎れてくれるのです。
表向きは国交の為・・・。しかし、捕虜同然の立場の自分に少女はいつも優しかった。
夢の中で互いに惹かれ、心から愛し合いました。
でも・・・、自分と少女の両国間で争いが起こり、二人は引き裂かれ・・・。
少女は悲しみ、湖に身を投じ、自分も国の計略によってすぐに命を落とした」
「・・・・・・」
「・・・自分はなぜ少女をさらってしまわなかったのか・・・、と後悔しています。
くす、夢なのに・・・おかしいですね」
「不思議・・・。私も似たような夢を見た事があります」
「え?」
「白い薔薇を抱えて・・・。深く冷たい水の底に・・・。
水面に浮んだ薔薇を見ながら・・・。愛しい人を思い浮かべながら・・・。
私の身は湖深く沈んでいくんです」
話しながら、私は思い出していた。
沈みゆく身体の感覚。私を包みこむ冷たい水。
伸ばした手の先から浮かび上がっていく白いバラと、輝く水面の美しさを。
「エリカ殿・・・」
「あ、男の方のお顔までははっきり出てこないんですけど・・・」
「そうですか・・・」 苦笑した私にナオジ様はしばらく口を閉ざし、やがて言った。
「輪廻転生というのをご存知ですか?
自分は、自分の夢は前世の記憶なのか・・・。そう思うことがあります。
少女に出会えたらすぐにその方と気付くだろう・・・と。
そして、二度と離れたりしないと・・・。
エリカ殿・・・、あなたは・・・」
「ナオジ様?」
「あ・・・すみません。くだらない事を・・・」
熱のこもった瞳がふっとゆらめき、そして私からそらされた。
「・・・ナオジ様・・・」
「お茶、美味しかったですよ。ありがとう」
「・・・」
どうして?
さげたカップを洗っている最中、私は無意識に手を止めて、自分の胸に問い掛けた。
どうして私はさっきのナオジ様の横顔に、あんなにも心が痛んだのだろう。
・・・。 ため息がこぼれた。胸の中にもやがかかってるみたいですっきりしない。
ナオジ様のように繰り返し同じ夢をみるのならいいのだけれど、
私のは・・・ 確信なんて全然ない。ただ時々、断片のような夢を見るだけで。
ため息をついて、手元に視線を戻したとき、
・・・“湖”・・・ ふいにその言葉が脳裏にひらめいた。
水をはったカップをゆらすと、水面が外の光を受けて、ちらちらとゆらめく。
その様は以前、湖でナオジ様を待っていたときのことを唐突に思い出させた。
記憶がなくなってしまったのは、湖面をのぞきこんだときから。
私が映っているはずの湖面、そこには違う女性が私を見つめていた。
哀しみを帯びた、何かを訴えかけるような眼差しは今でも心に残っている。
もしかしたらナオジ様の話となにか関係があるかも。
根拠はないって分かっていても、思い立つともうじっとしてはいられなかった。
ひとりで行くのを禁じられて以来訪れてないけど、ずっと気にはなっていたし・・・。
帰り際、私は遠慮がちに話を切り出してみた。
「あの、ナオジ様、湖に行ってきてもいいですか?」
「湖? 今からですか? 帰るころには暗くなってしまいますよ」
「ええ、でも」 口ごもった私にナオジ様は優しく微笑んだ。
「自分との約束を覚えていてくださったのですね。ありがとう。
構いません。今日手伝ってくれたお礼に今度は自分がお供します」
「ありがとうございます」 私はほっとして頭を下げた。
湖へ続く木々の間には霧がかかっていて、進むにつれ確実に濃くなっていく。
わー、きれい!
空を見上げれば、輪郭もなく淡く光る太陽が真っ白い霧に溶け込んでいて、
ところどころきらきらと輝く美しさに私はすっかりはしゃいでいた。
「エリカ殿」 ナオジ様はふと足を止めた。
「この霧であなたを見失いたくありません。
手をお取りしてもよろしいですか?」
「え? はい」
思わず見上げたナオジ様の顔すら、白い霧に阻まれてぼんやりとしか見えなかった。
差し出された手に指先を重ねたそのとき、
! 何かが心のなかではじけた。
「どうかしましたか?」
「い、いえ・・・、なんでもありません」
ドクン、ドクン。鼓動が触れた指先を通じてナオジ様に伝わってしまいそう。
こんなふうに手をひかれて歩く感覚。覚えがある。
まわりも白い風景で・・・違う、霧ではなくて、一面真っ白に輝く・・・
冷たい空気が私たちを包んで・・・、あれは雪だわ。
そう、見渡す限りの銀世界で私たちは手をつないで歩いた。白い息が舞って・・・
重ねた指先から温かさが伝わってきて、私はこのまま時が止まればいいと・・・
!!
突然、記憶が鮮やかに色づいて目の前に広がっていった。
夢の欠片がひとつになり、想いがあふれだす。
どうして私は・・・!
「どうかしたのですか?」
ふいに立ち止まってしまった私に心配そうな声が届いて、
手をにぎったまま、ナオジ様がそばに戻ってきた。
私の顔をのぞきこんで息をのむ気配がはっきりと伝わってくる。
「泣いて、いるのですか?」
「すみません」
顔をそむけた拍子に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「昔のことを思い出したんです。とても大切な、なつかしい思い出です。
そうしたら急に涙が」
「・・・そうですか」
ナオジ様の手がそっと背中にまわり、私を優しく抱き寄せた。
「!? ・・・。」
一瞬体をこわばらせたものの、私は素直に暖かい胸に顔をうずめた。
どうして忘れてしまっていたのだろう。
この方の優しさは少しも変わっていなかったのに。
愛しい人。あなたの帰りをずっと待っていました。
心のなかで誰かがそう呼びかける声が聞こえた気がしました。