早春の陽光のもと、なだらかな丘のすそに広がる
緑の葡萄畑の間を白い屋根の馬車がゆるゆると動いていた。
前に御者を含め二人分の座席と後ろに少しの荷物が置けるだけの
小さな馬車には若い男がひとり、手綱をにぎっていた。
その男の髪は屋根の影の中にいて、影よりも濃い漆黒で、
反対に肌は病的なほど白く透き通っていた。
その対照が鮮やかすぎて、とても人の目を引く。
ここらへんの農村の者でないことは一目で明らかだった。
時がゆったりと流れる、まどろむ景色のなか、
あたりに満ちるのどかな空気を満喫するかのようにバッツは物静かに、
時折目を閉じながら、馬車の揺れに身を任せていた。
葡萄畑の丘を登っていくと、
丘の上にある村をぐるりと取り囲む崩れかけた城壁が迫ってくる。
「この村か」 何時間かぶりにバッツは言葉を発した。
門らしき残骸をくぐり、少し入ったところで馬車をとめて見渡した黒い瞳には
奥へ伸びる明るい石畳と、その両脇に交互に連なる木々と家並みが映っている。
ほとんどの家がアーチ型の門を持った素朴な石造りの家で、
アーチにはつる薔薇がところどころ小さな花を咲かせていた。
いかにも平和そうな村だが、違和感に気付くのにそう時間はかからなかった。
静かすぎる。村人の姿も見えない。どの家も留守のようだった。
農作業中かとも思ったが、ここに来る時に通ってきた葡萄畑にも人は見えなかった。
ドアが開く音に目を向けると、少女が慌てたように飛び出してきて、
馬車の横をすり抜けて走っていった。
「?」
その少女を見送っていたバッツは、少女のあとを追うように馬車を進めた。
進むにつれて人々の喧騒が耳に入ってくる。
やがて見えてきた広場の様子に思わずバッツは手綱を引いた。
広場にはこんなにいるのかと思うほど大勢の人でごったがえしていた。
集団独特の一種異様な熱気が渦巻くそこは、老人から子供まで、
もしかしたらこの村じゅうの人が集まってるのではないだろうか。
彼らはざわめきながらも熱烈な視線を一ヶ所に送っていた。
広場に面して巨大な神殿が建っていて、
そこに今は現れていない何かを待ってるようだった。
興味をそそられて、バッツはその場から成り行きを見守ることにした。
人々のざわめきが大きくなり、それに迎えられるように神殿から
お付きの者たちを従えた神官らしき男が階段の上に現れた。
とたんに広場全体から拍手と大歓声がわきおこる。
両手を掲げて人々を制した男は広場の人を前に説法を始めた。
それは要約すれば、彼が神の代理人で皆の幸せを願っている、
という、特に目立ったところのない内容だった。
説法が終わると、従者が二人がかりでなみなみと水の注がれた
透明な杯を捧げ持ち、広場から見上げる人々に示した。
男が手をかざすと透明な水があっという間に赤い色のワインに変わる。
それを集まった人々に惜しみなくふるまう様子にますます広場は熱を帯びた。
そして石ころを黄金に変えてみせた時、渦巻く熱気は頂点に達した。
「ゼット様、ゼット様!」
熱狂した怒涛のごとき歓声が大地をゆるがす。
やがてゼットと呼ばれた男が神殿の奥に姿を消すと、
人々は興奮冷めやらぬまま帰りはじめた。
「すみません」
バッツは近くを通った中年の太った女性を呼び止めた。
振り向いた女性はものめずらしいものを見たかのように、
まじまじとバッツの顔を見つめていた。
「あの神殿の人はどういう方なんですか」
「あんた、ゼット様を知らないのかい!?」
信じられないという大声に近くを通った村人たちが数人足を止めた。
彼らは例外なく、よく日焼けした顔をしていた。
その中の一人が自分のことのように誇らしげに声をはりあげた。
「ゼット様は偉大な神の代理人様だ。
水をワインに変えたり、石を金に変えたり、予言なされたり。
俺たちに奇跡の御業を示してくださる」
「いつごろからこの村に?」
「1ケ月ぐれえ前だよ。
いきなり神殿が現れてさ、もうびっくりしたのなんのって」
「あの神殿だって聖なる御力によって、一夜にして建ったんだぞ。
信じられるか?」
興奮ぎみに次々と声があがる。
バッツは彼らを見回しながら、また口を開いた。
「この村には神父がいたと思いますが」
「ああ、いるけど・・・そういやあ最近見てねえな」
「たぶんもういないよ」
さきほどの女性の声にバッツは再び視線を向けた。
彼女は思い出すように視線をさまよわせつつ言葉を続けた。
「もう10日ぐらい前かねえ。見かけなくなって。
あたしゃ毎日近くを通るんだけど、最近、人の気配がまるっきりしないのさ。
急にいなくなったから気にしてたんだ。何かあったんじゃなきゃいいんだけど」
「・・・」
「居づらくなって逃げ出したんじゃねえの?」
その声に周囲に納得した空気が漂った。
「確かにゼット様がいらしたんじゃ、教皇といえども立場ねえよな」
「そりゃ仕方ねえよ。
あんな奇跡を目の前で見せられちゃあな。
信じないっていうほうがどうかしてるぜ」
「・・・。 この村に宿屋はありますか」
「あんたは運がいい」
中年の女が大きな声で言って、顔全体で笑った。
「うちがそうだよ。案内するから乗せておくれ」
* * *
「こんな田舎にいったいなにしに来たんだい?
男一人でバカンスってわけじゃないだろ?」
馬車の座席には二人分のスペースがあったが、
かっぷくのいいおばさんにはちょっと窮屈そうだった。
「フォレスト神父を訪ねてきたんです」
バッツは前を向いたままだったが、それでもすぐ横から
はっとした気配が伝わってきた。
「あんた、神父様の知り合いだったのかい。
じゃ、さっきは悪いことを言ったねえ」
「いえ」 短く答えたバッツはおばさんへ顔を向けた。
「フォレスト神父はいなくなる前に変わった様子はありませんでしたか?」
「そうだねえ。神父様はいい人だったけど、
ゼット様のことはよくは思ってなかったみたいだね。
ま、立場上当然なのかもしれないけどさ」
「そうですか」
それきり口を閉ざしたバッツを見て、おばさんも黙り込んだ。
宿に荷物を置くとすぐにバッツは教会へ行ってみた。
村のすみに佇む教会はこぢんまりとしていて、のどかな風景に溶けこんでいたが、
近づくにつれ、無人のシンとした気配に包まれていった。
教会のわきに付随して小さな家が建っていて、そこが神父の家と聞いていた。
扉をノックしたが応答はない。
ためしに開けてみると、鍵はかかっていなかった。
「フォレストさん・・・」
小声で呼びながら中へ入る。
室内は今でも人が住んでいそうだった。
コートや帽子は壁にかかっているし、
台所にはきちんと重ねられた皿の入った食器棚や調理器具もある。
足りないのはそこに住んでいるはずの人だけだった。
家具にはうっすらとほこりが積もっていたが、
明らかに引越しや家出などではなく、人だけが急に消えた。そんな印象を受けた。
日記や本をぱらぱらめくり、引出しを一通りあらためて、
1時間ほどでその家を後にした。
「どうだい? 何か分かったかい?」
少し早いごはん時で1階の食堂は混雑していたが、
バッツが帰ってくるなり宿屋のおばさんは待ちかねたように声をかけた。
バッツが首を振ると肩を落とす。
「そうかい。このことを知ったらミシェイル様はまたお悲しみになるだろうね」
「ミシェイル様?」
宿屋のおばさんはきょとんとした目を向けた。
「あんた、やっぱりここらの人間じゃないね。
ミシェイル様といえば領主の一人娘で、
伝説の光の妖精に
例えられるくらい、そりゃあもうお綺麗な方なのさ。
でも少し前に領主夫妻がそろってお亡くなりになられて以来
ふさぎこまれているらしくて・・・前はよくこの村にも遊びに来られていたのに、
近頃はちっともお越しにならない。
聞いた話じゃ、喪に服されていて、
頭から黒いベールをすっぽりかぶって顔さえもお見せにならないそうだよ」
宿屋のおばさんの顔には心底痛ましげな表情が浮かんでいた。
「ご両親を失ったショックが大きいんだろうね。あんなに明るい姫さまだったのに。
そのうえ、ずいぶんと慕ってた神父さまも行方不明っていうんじゃ、
あまりにもお気の毒すぎるよ」
ふと気付くと、店にいるすべての客が彼女の声に耳を傾けていた。
心配そうにうつむく者、何事か思いふけっている者、さまざまだったが、
みなミシェイルという女性を心配しているようにみえた。
「領主夫妻はどうして亡くなられたんですか」
おばさんは大きなため息をついた。
「それがね、よく分からないんだよ。
噂では病死ってことなんだけど、そんなふうには見えなかったのに」
「彼女はどこに住んでるんですか」
「この村の東のほうに見えるお城だよ」
「・・・」
「まさかあんた行ってみようなんて思ってるんじゃないだろうね」
おばさんはいぶかしげにカウンターから身を乗り出した。
「無駄だよ。城に出入りしている商人が言ってたけど、
最近驚くくらい警備が厳重なんだとさ。 あんたが行ったって会えやしないよ。
あいよー! まあ、気を落とすんじゃないよ」
客の呼び声に大声で返事したおばさんは、 バッツの体をぽんと叩いて離れていった。
ミシェイル、か・・・ 口の中で名を呟くと、バッツは階段を上がっていった。
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