病院へ行った日の夜、いつものようにバッツは館の中廊下を歩いていた。
ウェルと話し込んでいたせいで外はとっくに暗くなっている時刻だが、
今夜は月の光がやけに明るい夜だった。
廊下に連なる磨きぬかれた窓から優しい月光が降り注いでいる。
そんな窓の外を見やりながら、バッツはミシェイルに報告に行く足を少し早めた。
「バッツさま」
背後から呼ばれた声にふと足を止める。
振り返った視線が若いメイドの視線とぶつかった。
「少しお話が」
「・・・。 伺いましょう」
しばらく無言で彼女を見つめていたバッツは、
くるりと向きを変え、そばへ歩み寄っていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ミシェイルは窓から庭を眺めていた。
正確には彼女が見ていたのは庭ではなく、そこに面した回廊だった。
バッツが報告に来る時に必ず通るパティオ風の庭をめぐる回廊を
部屋から見下ろしながら待っているのが、 いつのまにか彼女の日課となっていた。
今夜は月光浴をしたくなるような、静かで明るい夜だった。
窓辺によりかかっていたミシェイルは見慣れた人影を見つけたが、
ささやかな楽しみを期待した心はいぶかしげな影によってさえぎられた。
人影はひとつではなかった。
ミシェイルの目は注意深く、回廊に動くふたつの人影を追っていた。
メイドに導かれるようにバッツが歩いている。
人気のない回廊の片隅まで来ると彼女はぴったりとバッツの胸によりそった。
! ミシェイルの胸を鋭い痛みが貫き、
汗ばんだ手が無意識に激しい鼓動を打ち出す心臓の上に重ねられていた。
「バッツさんは、その・・・ メイドとよからぬ話が・・・」
しどろもどろなメリッサの声が唐突によみがえる。
私は何をしているの?
はっと我に返ったミシェイルは、窓ぎわに張り付く身を引き離した。
こんな覗き見などして。これ以上何も見なければ・・・知らなければ・・・
だがいくらそう思っても、罪悪感を感じても、 ふたりから視線を外すことはできなかった。
バッツは彼女を拒むわけでもなく、そのまま会話を交わしているようだった。
不意にメイドが逃げようとしたが、 バッツの手がすばやく彼女の腕をつかみ強引に引き戻す。
抗おうとする体を腕の中に閉じこめ、女の顔をのぞきこんだ。
身をかがめ、ふたつの影は近づいていく。
ジャッ! 激しい音とともに、突然、外の風景がカーテンに変わった。
引き合わせたカーテンを握りしめた両手が、ずるずると滑り落ちていって
その場に崩れ落ちたミシェイルの涙で濡れた。
「あなたを愛する男など誰もいやしない」
ゼットの言葉が頭の中に響き渡る。
その夜、バッツは報告にこなかった。
次の日、昨日の報告を聞きたいとの伝言を受けて、
バッツはミシェイルのもとを訪れた。
最近は外してくれているベールを今日はしているのに気づいたが、
それを表には出さなかった。
いつもどおり報告を始めてしばらくした頃 前触れもなく響いたノックの音にバッツは言葉を切った。
ティーセットをのせたワゴンが入ってくるのを見て、 そのまま報告を一時中断する。
ふたりに丁寧におじぎすると、メイドはフィナンシェを盛った皿を置き、
慣れた手つきでポットからカップに紅茶を注いでいった。
コポコポと響くその音をミシェイルは腰掛けたまま静かに聞いていた。
紅茶にはあらかじめゼットからもらった液体が混ぜてある。
ミシェイルはメイドが一礼して下がり、
二人きりになるのを待ってからカップに口をつけて一口飲んだ。
バッツが自分より先に食べたり飲んだりしないのを知っていたから。
当然、彼女のカップにもそれは混ざっているはずだ。
だがミシェイルはそれでいいと思っていた。
そして、バッツがカップを口に運び、
紅茶がのどを通るのをベール越しにじっと見守っていた。
効果はすぐにあらわれた。
ガチャンと耳障りな音を立てて、カップがソーサーの上で揺れる。
口を覆ったバッツの目がみるみるうちに苦悶の色に歪んでいった。
「紅茶に何を・・・」
立ち上がろうとした足がよろけて、がっくりとひざをついたが、
テーブルの端にひじをかけて、かろうじて床に倒れこむのをこらえた。
うなだれて喘いでいるバッツにゆっくりと近づいたミシェイルは
全体重を支えている腕をテーブルからそっと押し外した。
ぐったりとした体が床にくずおれてゆく。
男の意識はもうなかった。全身からの冷や汗のせいか体が冷たい。
ミシェイルの体には何の変化もないというのに。
空っぽの心に乾いた笑いが響き渡った。 これが答えだったのだ。
「私が死ねばよかった」
男の手を両手で握りしめながら、彼女の心は深い闇に閉ざされた。
「やはりあなたは聡明な方だ。この悪魔のことは私に任せなさい」
ゼットは親しげに微笑みながら、ミシェイルの肩へ手を置いた。
ミシェイルの目は意識を失って床に倒れているバッツを見下ろしていた。
まぶたはかたく閉じられ、全身から噴き出した冷や汗で
黒い髪がべったりと頬に張り付いていた。
あの後、気を失ったままバッツは馬車に乗せられ、
ミシェイルとともにゼットのいるこの神殿へと運ばれてきた。
この部屋まで運ばせた館の者たちは先に戻らせている。
この場にはゼットとミシェイルとぐったりしているバッツしかいなかった。
「やはり私の言うことは正しかったでしょう?」
肩に置かれたゼットの手に力が入る。
「・・・」
その手を冷たく払いのけると、ミシェイルは踵を返し、
ベールのすそをなびかせて足早に去っていった。
「強情な女だ。おい、こいつを牢へ運べ」
ゼットはミシェイルと入れ違いに入ってきた部下たちに
ぶっきらぼうにあごでバッツを示した。
運ばれていく後姿を一瞥したゼットは彼らに背を向け、違う扉へ向かった。
満足げにつりあがった口の端には村人たちの前では決して見せない
残忍な笑みが浮かんでいた。
「・・・・・・」
ひんやりとした空気に包まれてバッツは薄く目を開けた。
肩が痛い。まだ重い頭を上げると、暗い部屋の中、
十字架に張り付けされたように両方の手首が鉄枷につながれていた。
鉄枷は鎖にぶらさげられていて、動くとジャラジャラと鳴った。
それに気付いたのか外で人の動く気配がした。
手首をつなぐ鎖は立てば腰の高さぐらいの位置にあったが、
気を失っている間、冷たい石床の上に倒れていたので、
ぴんと張って手首を高く持ち上げている。
立ち上がろうとして、 足にも鉄枷がはめられてるのに気付いたバッツはため息をついた。
背後の壁に寄りかかるようにしてじりじりと身を持ち上げると、
その分たわんだ手首の鎖を握りしめ、一気に体を引っ張りあげる。
やっと体重から解放されて、肩の痛みが少しやわらいだ。
しばらく体を休めていると、足音が響いてきて、扉が開く音がした。
「起きたか」
ランプの明かりをいきなり目の前に突きつけられ、思わず顔を背ける。
「これほど効くとは。 ウェルめ、エセじゃなかったのか」
「ウェル?」 意外な言葉にぴくっと反応する。
眩しさに頭痛に似た感覚を覚えながらも、
バッツはランプの向こうの男を見ようと目を細めた。
「やつを知ってるのか」
軽い驚きを含んだ声がランプの向こうの闇から返ってくる。
やっと明かりに慣れた目に嗤うゼットの顔が映っていた。
「ミシェイルがおまえに飲ませたのはその男が作った薬だ。
どうだ? ミシェイルとウェル、二人に裏切られた気分は」
「・・・。 これ、外してくれませんか」
バッツは手首を持ち上げた。 つながっている鎖が重そうな音を立てる。
「ふん。裏切られた感情すらないか。
さすが悪魔よ。それは外すわけにはいかんな」
「こんなにがんじがらめにしなくても逃げませんよ。
それに悪魔とはどういうことですか」
「しらばくれるな」 ゼットは頬を歪めた。
「俺には忠実なしもべがたくさんいる。
やつらが破滅が迫っていると忠告した。 だがそんなもの恐るるに足らず!
さあ、悪魔よ、真の名を言え」
「・・・」 バッツの黒い瞳がゼットをとらえた。
「私を支配する気ですか。 おやめなさい。魔術師といえども身を滅ぼしますよ」
驚くほど穏やかな声だった。
まるで聖者が迷える子羊たちを優しく諭すみたいに。
「ふっ ひゃははは」
突如、ヒステリックな笑い声が石牢中にこだました。
引きつった顔が目の前に迫る。
「ゴエティアにも載らぬ下級悪魔が何をほざく。
私は72柱の悪魔さえ従える選ばれし者。
言わぬなら言わせるのもわけないぞ」
ゼットはふところからメダルのようなものを取り出した。
「それは」
「分かるか? このソロモンのシジルの力が」
「それをどこで」
「譲り受けたのさ。もっとも、そいつもすでに・・・
そうだ、おまえごとき支配してもしょうがない。別に役立たせてやろう」
ゼットは何を思いついたのか、
にやりとした笑みを残し、石牢から出ていった。
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