MEA CULPA |
バッツが病院を訪れて数日後、所用の帰りがけに
ウェルはミシェイルの城に立ち寄った。
医師としてではなく貴族のウェルを無下に断るわけにもいかず、
彼はすんなりと応接間へ通された。
黒い服にベールをまとって現れたミシェイルに
ウェルは一瞬驚いた顔を見せたが、あえてそのことに触れなかった。
「やあ、ミシェイル。久しぶりだね。
バッツに会わせてもらえるかな」
「その方はもうおりません」
ベールをかぶったミシェイルにかわり、
かたわらに控えたメリッサが素っ気なく言った。
「いない? ここにいると聞いていたんだが。
では彼は今、どこに?」
「あの男はゼットへ引き渡しました」
「どういうことだ?」
いぶかしげな声にメリッサは苦々しく答えた。
「ゼットのいうことは正しかった。あの男は悪魔だったのです。
その証拠にゼットが渡した聖水を飲むなり倒れてしまいました」
「聖水で倒れた!? その聖水、まだ残ってるか」
「いえ、中身は全部使ってしまいました。ビンならありますが」
「見せてくれ!」
「お待ちください」
ウェルの様子をいぶかしく思いながらも、メリッサは主の許可をとると
静かに下がっていき、そばにいた使用人を呼び止めた。
しばらくしてノックの音が響き、ドアに向かったメリッサは
ガラスのビンを手に戻ってきた。
「こちらでございます」
「これは」 ビンを手に取ったウェルはそれきり押し黙ってしまった。
「それにあの男は調査にきたといっておきながら、メイドと・・・
! 申し訳ありません」
ミシェイルに袖を強く引っ張られ、メリッサは慌てて口をつぐんだ。
外の明るい陽気とはうらはらに部屋には重い空気が漂っていた。
あいつがねえ・・・
察しのいいウェルは口元に手を当てて、しばし考えたあと、
上目づかいにメリッサを見た。
「バッツはそのことを認めたのか? 相手のメイドは?」
「当のメイドは何も知らないの一点張りですが、
今の状況を見れば真実は明らかでしょう」
メリッサは興奮のあまり鋭い声を出したが、
小さく咳払いすると、努めて冷静な声色で話しを続けた。
「聖水の入った紅茶はお嬢さまも飲まれましたが、
なんともありませんでした。
倒れたのは、あの男だけです。それで充分ではございませんか」
「・・・ミシェイル」
ウェルは光を拒む黒いベールの奥をじっと見つめた。
「君はそれでよかったと思ってるのか?
自分の行為を後悔していないと断言できるか?」
「・・・」
肯定も否定もしないミシェイルにウェルは小さく息をはいた。
「私は神父ではないが・・・ 君はひとつ罪を犯したようだね。
疑いこそ神が最も嫌う罪。
私ならあいつを疑って迷うより、信じて裏切られるほうがよほどいい」
メリッサが口を開きかけたが、ミシェイルの手が一瞬早くそれを制した。
「やつの名誉のために言っておくが、バッツは君をほめてたよ。
強い女性だとね。では失礼」
ウェルはかけてあったコートを手に取った。
ひとりになったミシャイルの脳裏にウェルの言葉が響いていた。
信じて裏切られるほうがいいなんて本気で言えるのは、
裏切られたことのない幸せな人か、
その相手に絶対の信頼を寄せているか、どちらかだろう。
もし直接聞いたなら彼はなんと答えたのだろう・・・それは今でも思う。
その思いを後悔というのなら。
「お嬢様、どちらへ」
こっそりと馬小屋の中に忍び入ったミシェイルは
背後から響いた思いがけない声にびくっと身体を震わせた。
その弾みに抱えていた鞍が腕からすべり落ち、藁の上に落ちる。
柔らかい藁がクッションになって、たいした音は立てなかったが、
すぐ側に繋がれていた馬が驚いて、数歩逃げるように身をよじった。
「まさか、ゼットのところへ行かれるおつもりですか」
厳しい調子の声に硬直したようにミシェイルは立ち尽くした。
うつむいた視線に、ふうっと息をつく音が聞こえた。
「ではすぐに馬車を用意させましょう」
「!」
驚いて見つめるミシェイルの瞳の中で、
メリッサの表情がふっとゆるんだ。
「バッツさんを歩いて帰らせるおつもりですか。
もちろん私もおともいたしますよ。お、お嬢様!?」
駆け寄ったミシェイルに抱きつかれ、メリッサは戸惑いの声を上げた。
馬車がゼットの神殿に着いたのは、もう夕暮れ間近だった。
バッツを連れてきた時と同じ豪華な部屋の扉が開き、
ゼットがにこやかに現れた。
「ようこそ。ミシェイルさま。あなたからお越しくださるとは」
「バッツに会わせてください」
近づこうとするゼットを阻むように、
ミシェイルにつき従っていたメリッサが一歩前に出た。
「おやおや、よい返事をお聞かせいただけると思ったのに。
ご安心を。彼は牢につないでありますよ」
「彼と話がしたいのです。連れてきてください」
「それはできませんな。なにせやつは悪魔だ。
戒めの鎖を外せば逃げてしまう」
「では私たちが会いに行きます。それなら良いでしょう?」
「・・・構いませんよ。では案内いたしましょうか」
暗い石の廊下をほのかに照らすランプがゆっくりと動いていく。
降りていくにしたがって暗く湿気のこもった空気が肌を覆い、
陰惨な気配が漂いはじめていた。
ぽつんぽつんとどこかで水の滴る音さえ響いてくる。
なぜこんな場所がある?
ランプを手に先に立って歩くゼットの後ろ姿を追いながら、
メリッサの疑念はどんどん膨らんでゆき、
目的の場所に到達するころには、それは確信へと変わっていた。
「ここですよ」
ひんやりとした石の階段を下りたところにある
分厚い鉄の扉の前で彼は振り向いた。
そこには見張りがいたが、ゼットが目配せすると無言で去っていった。
扉は上のほうにのぞけるスペースがあるが鉄格子がはめられていて、
その向こうは闇でまったく見えない。
ミシェイルの心臓が高鳴りはじめた。
ゼットが鍵の束を取り出して、そのひとつを差し込んで回す。
ゆっくりと開く扉の、その先に広がる闇に懸命に目をこらした。
「!」
ランプの明かりが届くぎりぎりのところに
鎖でつながれているバッツを認めるなり、彼女は駆け出していた。
バッツは冷えきった空気のなか、うなだれたまま動かなかった。
床の上にひざをつき、鎖のついた両腕が十字架にかけられたように
左右に高く吊り上げられたままぴくりともしなくて、
生きてるのか死んでるのかすら分からなかった。
「なんてこと」 背後でメリッサが口を覆ってつぶやいた。
ひざまづいてバッツの背に手を当てたミシェイルは
冷たい体の中にも鼓動を感じて心からほっとした。
牢を開ける音に何も反応しない様子を見ただけで
心臓が圧し潰されそうだった。
彼が悪魔だとか、そんなことはもうどうでもいい。
少なくとも、彼は私の姿を知っても誠実に接してくれた。
それが私は、とてもうれしかった。
ミシェイルはキッと顔を上げた。
「今さら、どうしたんです? あなたがたが彼を売ったんですよ。
彼は裏切ったあなたをさぞ恨んでいるでしょうね」
ランプに照らされたゼットはうすら笑いを浮べていた。
たしかに今さら信じるなんて虫がよすぎるのはよく分かっている。
恨まれて当然だし、このことについて言い訳する気もなかった。
ただ・・・ ミシェイルは唇を噛んだ。
あの時ウェル先生のようにこの人を信じられる強さがあったら。
言葉を返さないミシェイルに業を煮やしたゼットの声がふりかかった。
「さあ、待つのも限界です。そろそろ返事をいただけますか。
あなたの答え次第ではさらに神の罰がくだることになりますよ」
ゼットが片手を上げると、それを合図に
神官らしき男がばらばらとやってきて、メリッサを拘束した。
「何をするのです。お放しなさい!」
鋭く響くメリッサの声にミシェイルははっと顔を向けたが、
立ち上がろうとする前にゼットが割り込んだ。
「さあ。お返事を」
「・・・」
ミシェイルは肩を落とした。もう誰も失いたくない。
ゼットへ顔を向けたそのとき、
「ダメです」
「!」
バッツの黒い瞳がミシェイルを見つめていた。
邪魔されたゼットの顔にみるみる激しい怒りがあふれ、
乱暴にミシェイルを払いのけると、
右足でバッツの肩を思いっきり壁に蹴りつけた。
そのままぐりぐりと壁に押し付ける。
「ぐっ」 低い声が髪のすきまから漏れた。
「おまえはこの程度ではすまさんぞ。よくも使い魔を殺したな」
「ああ」 苦痛を交えたバッツの声がかすかに微笑った。
「メイドに入り込んでたやつか。
当たり前でしょう。それが私の仕事ですから」
使い魔? ミシェイルはとっさにゼットをつきのけた。
情けなくその場に転ばされて、怒りの矛先がミシェイルに向けられる。
立ち上がったゼットはあからさまな侮蔑をこめて叫んだ。
「また人が死ぬか。仕方ないよな。
あんたは周囲の人間を平気で死に追いやる冷酷な罪人だ。
予言しよう。あのババアはあんたの親と同じ病で死んでいくよ」
「! まさか旦那さまと奥さまの病気は」
叫ぶようなメリッサの声にゼットは振り返り、唇の端を歪めて言った。
「そうさ。みんな、俺が罰をくだした。
この女が最初っから素直にうなずいていれば誰も死なずにすんだのに。
恨むんならバカな主人をもった自分を恨むんだな。連れてけ!」
ミシェイルとメリッサは腕を取り押さえられ、
抵抗しながらも牢から連れ出されていった。
それを見送ったゼットは満足そうにバッツを見下ろした。
「おまえの命も今晩までだ。神にでも救いを乞うんだな」
ヒステリックな笑い声と入れ違いに牢の閉まる重い音がした。