「吟遊黙示録マイネリーベ」 より “Lacrimosa”  

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   冴え冴えとした美しい湖のほとりに立っていた。
   静かな湖面は吸いこまれそうなほど深く澄んでいて、すべてを受け入れてくれるだろう。
   幸せだった過去の記憶も、今の想いも、これからの罪も。
   そう、きっとなにもかも。

   最初は同情だった。
   あの人の不幸な身の上に対しての・・・。
   自分の立場をよく知っていたあの人は、いつもどこか哀しそうな目をしていたから。
   わらってほしかった。
   あの人が初めて微笑みかけてくれたときはすごくうれしかったわ。
   いつしか私たちの間に恋心が芽生え、月の照らす湖のほとりで愛の誓いを交わした。
   空気は冷たかったけど、抱きしめてくれたあの人のあたたかさは覚えている。
   けれど、わたしたちの国のあいだで戦争がはじまり、
   何も言わぬまま、あの人は去っていってしまった。
   それでも待ち続ける私のもとに親が決めた結婚話が持ち上がって・・・。
   逆らうことが許されなかった私はある日、純白の薔薇の花束を抱いて湖にきた。

   私はここでずっとあなたの帰りを待っています。
   愛しい人・・・私の心はあなただけのものだから。




            ・・・。

            涙にぬれたまぶたのすきまから、朝の光が差し込んでくる。
            はぁ・・・またあの夢かー いったいなんなのよ。
            ベッドからおりて窓へと部屋を横切る、その通りすがりに映った鏡に引き寄せられ、
            しばしにらめっこした私は、やがてがっくりとうなだれた。
            ・・・学校に行く前に、このはれぼったい目をなんとかしなくちゃ。

            放課後、校舎から外に出ると、高い秋の空が広がっていて、とっても気持ちいい。
            うーん、今日は授業も早くおわったし、湖辺りに散歩に行こう。
            天高く、気清し。このまままっすぐ寮に帰ってしまうのはちょっともったいない。

            人!? 湖の中に誰かいるわ・・・。
            緑に茂る木々のあいだから出てくるなり、私ははっと息をのんだ。
            陽が傾きかけるなか、森に囲まれた湖に白い装束を着た人が佇んでいる。
            一瞬、自殺かと思ってドキッとしたけど、違うみたい。
            あらためて心を落ち着けて見てみると、なんて幻想的なんだろう。
            長い黒髪が水気を含んで、つややかに光っていて、
            ・・・キレイ・・・。
            もしかして・・・ナオジ様・・・?
            やだ、私ったら。見とれちゃって・・・。でも、本当にキレイ・・・。はぁ〜。

            湖面にたゆたう夕陽に包まれたナオジ様の姿は
            俗世とはかけ離れていて、ため息が出るほど美しかった。

            「!? 誰かいるのですか?」

            しまった。気付かれちゃったみたい。

            「あ、あなたですか・・・?」

            ナオジ様の声が和らいだ。

            「すっすみません! あの、覗くつもりでは・・・。その・・・」

            「かまいません。気にしないでください」

            ・・・近くで見ると、さらにお綺麗だわ。
            口元が穏やかにほころぶ、その表情ひとつにも目を奪われてしまう。
            雰囲気がずいぶん違うのは、見慣れない服装とおろしている髪のせいかしら。
            夏に火傷でふせてらした時も、普段ひとつに束ねている長い黒髪を
            時折ほどかれていて、どきっとしたけど、今はもっと・・・。
            ふいに、ナオジ様の顔を言葉もなくずっと見つめてしまっている自分に気付いて
            慌てて話し掛けた。

            「何をされていたのですか?」

            「禊 (みそぎ) です。けがれを清めていたのです」

            「ケガレ・・・?」

            「ええ、自分の雑念を払うために・・・
             エリカ殿はここで何を?」

            「あ・・・ちょっと散歩に・・・」

            「そうですか・・・。
             でももう日も落ちています。風邪を引いてしまいますよ」

            「ナオジ様こそ・・・。お寒くないですか?」

            「自分は大丈夫です。精神から切り離してますから」

            「え?」

            「体感する事を精神から切断すれば痛覚や空腹感などを感じなくなる」

            「???」

            「くす、混乱が顔に出ていますよ。かわいらしい方だ」

            ナオジ様は水からあがった。

            「・・・帰りましょう。お送りします。
             少し待っていてもらえますか?」

            「はい」

            残光を含んだ湖は冷たいほど澄んでいる。

            「!?」

            湖のほとりでひとり、ナオジ様を待ってるとき、
            ふと視線を落とした水面に意識が吸い寄せられた。

            ・・・。

            「お待たせしました。 エリカ殿?」

            振り返った瞳にはナオジ様が映っている。

            「Gud styrke dig, hvor du i Verden går,
             Gud glæde dig, hvis du for hans Fodskammel står.
             Her skal jeg vente till du kommer igjen;
             og venter du hisst oppe, vi træffes der, min Ven」


            異国の言葉が私の口から紡ぎだされ、
            見つめる瞳から涙がこぼれて、頬を伝っていった。

            「エリカ・・・殿・・・?」

            目を見開くナオジ様に背を向け、私は湖の中央へ歩き出した。

            「! エリカ殿!」

            バシャバシャと水音がせまってきて、腕を掴まれたけど、
            その手を強引に振りほどいて進んでいった。
            水はもうひざまで達している。

            「・・・っ! 行くなっ!!」

            突然、逆らえない強い力が私を振り向かせた。
            !

            ん・・・ あたたかい。
            仄暗い水に沈んだような冷えきった体にじんわりと温もりが伝わってきて、
            私は暗闇のなか目を開けた。
            なぜか体が動かなくて、わずかに身じろぐと押さえていた力がゆるんで少しだけ動けた。
            何気なく顔を上げた瞬間、私は心臓が・・・止まるかと思った。

            「ナ、ナオジ様?!」

            な、なに!? これはいったい、どういうことっ?!
            どうして私がナオジ様に抱きしめられてるの?
            しかも足が冷たいと思ったら、水の中じゃないっ!
            ???

            明らかに狼狽している私を見て取ると、ナオジ様は注意深く腕を解放した。

            「火事のあとは水難ですか・・・」

            「??? いったい私、どうしてこんなところに」

            「覚えてないのですか?」

            「はい。あの、何かご迷惑をおかけした・・・みたいですね。すみません」

            ナオジ様は小さく息をついた。

            「とにかく上がりましょう」

            私の手をひき、岸に向かう。

            「本当に何も覚えてないのですか?」

            「え!? あ、はい・・・。
             ナオジ様を待っている間、湖面を眺めていたら急に気が遠くなって」

            「・・・。 これからはひとりで湖に行かないと約束してくれますか?
             どうしても行きたいときは自分がご一緒します」

            「・・・分かりました。あの、私はいったい何をしたんでしょうか」

            ナオジ様は答えてくれなかった。
            帰り道もずっと無言で・・・、きっと怒っているか、あきれられているんだわ。

            「エリカ殿」  寮の入り口でナオジ様は振り向いた。

            「は、はい!」

            私を見る黒い瞳が少しだけ優しくかげる。

            「そんなに緊張しなくても結構ですよ。
             ・・・軽率な行動を取らぬよう、ご自愛ください。
             あなたに何かあれば心を痛める者がいるということをお忘れなきように」

            「はい・・・ わかりました」

            あ〜 もう撃沈寸前。 部屋に戻るなり、ばふっとベッドに倒れこんだ。
            私ったら、いったい湖で何をしたの?
            ・・・。湖のほとりでひとり、ナオジ様をお待ちしていたとき、
            何気なくのぞいた水面に見知らぬ女の人が映っていた。
            そこから記憶がないけど、女の人の何かを訴えかけるような、
            哀しげな目だけははっきりと覚えている。
            それにしてもナオジ様にはずいぶんとご迷惑をおかけしたみたいだし、
            これは当分浮き上がれないかも。はぁ。

            でも・・・
            私は胸の鼓動が早まるのを感じながら、うつ伏せになり、枕に顔をうずめた。
            ナオジ様の腕の中、あたたかかった・・・とても。




<補足>
お読みいただいてありがとうございます。
ここで使用したBGMと、主人公が湖でつぶやいた言葉の意味を説明します。

BGMの “Lacrimosa” は 「涙の日」 という意味です。
流れるような綺麗な曲で、最初に聞いたときからどこかで使おうと思っていました。
ぴったりの場面があってよかったです。

もうひとつの、湖で主人公が言った異国の言葉の意味は、最初の話、 序章:入学式 の4〜7行目に書いてあります。
これは、「ペール・ギュント」 という劇のなかの 「ソルヴェイグの歌」 の一部で、
自分を置いて世界を放浪している恋人を想って歌っている、哀愁を帯びた美しい愛の歌です。
最後に恋人はソルヴェイグのもとに戻ってきて、心穏やかに死を迎えます。

「ソルヴェイグの歌」 の歌詞と曲、ペール・ギュントのあらすじが知りたい方は こちら へどうぞ。
なお、曲はIE限定です。自動的に鳴りだすので、ボリュームにはご注意ください。

     ’05. 5. 20