ルースとバッツは昨晩に続き、孤児院を抜け出した。
礼拝堂に続く補強された門扉を越え、森の間の小道を抜ける。
月明かりがあったが、それがかえって静寂を身にしみさせた。
重々しく開いた扉の音ががらんとした空間に響く。
中は高窓から差し込んだ月光で意外と視界がきいた。
月明かりで明暗が作られたふるぼけた床には確かに子供たちの言う通り、
地下へ降りる階段へ続くであろう扉があり、それは閉じられてはいたが、
一度開いた扉をふたたび開けるのにさほど苦労はしなかった。
無表情なふたりともが、わずかに表情を険しくした。
視界の利かぬ闇がぽっかりと口をあけ、
そこから腐臭にも似たおぞましい気配が立ちのぼっていた。
人間ならば本能的に嫌悪せずにはいられない
ひどくまがまがしい、体が疼くような。
これは・・・本物だ。
「ルース!」
そばにいたはずのルースの姿は、すでに石段の闇へ消えつつあった。
バッツはため息をつき、後を追った。
おりた先には小さな部屋があって、まだ先へ続いていた。
ランタンの光があたりをぼんやりと照らす。
ここは通路兼物置のように見える。
奥から漂ってくるよどんだ空気がより濃く、身体にまとわりついてくる。
事件の報告はずいぶん歪められてるな。
ルースはかすかに舌打ちした。
間違いなくこの先が三年前に起きた事件の中心。
三年前、ルースは在籍してはいたが、実際は学校にきておらず、
知ったのは、事件が収束し、学院が閉鎖された後だった。
そして、あいつだけがいなくなった。
「・・・」 ルースの様子をバッツはずっと目で追っていた。
気になるのは、奥から漂ってくる気配ともうひとつ・・・
バッツは再び物言いたげな視線をルースへ送ったが、
彼はそれを無視し、奥の扉を開けた。
「アルリシア!」
駆けよろうとするルースの腕が急に引っぱられた。
「放せっ!」 誰もが怯む鋭い眼光がにらみつける。
「駄目です。彼女はとりつかれてます」
振り解こうとする腕をつかむ手にバッツはさらに力をこめた。
扉の先は大きな広間になっていた。
床に鈍く光を放つ魔方陣が大きく描かれ、
虚ろな目をした少女が真ん中にうずくまっていた。
ルースの腕から力が抜けた。
冷静さを取り戻した瞳がバッツを見る。
「どうすればいい?」
「彼女の中に入り込んでいる悪魔を外に追い出せれば」
そのとき、ゆらりと少女は立ち上がった。
肩のところで切りそろえた髪があどけない頬にかかる。
虚ろな瞳に魔性の光が宿り、彼女は細く白い両手を差し出した。
腕に絡みついた黒い瘴気が地を這って伸びてくる。
バッツはルースの腕をつかみ、部屋を飛び出ると、素早く扉を閉めた。
悪魔はその場から動けないのか、扉を閉じると気配はひいた。
「どうやったら悪魔を追い出せる?」
「難しい」 バッツは低くつぶやいた。
「彼女は自分の意志で悪魔を閉じ込めています
これ以上は危険です。あなたは戻ってください」
ルースを見つめたバッツはやがてため息をついた。
「・・・と言っても無駄のようですね」
バッツは小ビンを取り出した。中には液体が入っている。
「聖水です。これを彼女の肌に直接振りかけることができれば、
追い出せると思います。できますか?」
「ああ」
「一滴自分の額につけてください。
近づくまでの一時しのぎにはなるでしょう。
うまく追い出せたら、彼女を連れてすぐ逃げてください」
「分かった」
「では、行きます」
「アルリシア、悪魔を解放しろ!
アルリシア! ・・・アルル!」
! 侵入者と向かい合う少女の動きが止まった。
「・・・」 無機質な目にかすかな光がともり、二人に焦点があった。
唇が声にならない言葉を囁く。
コォー
突然、少女の体から闇が吹きだし、
ガスのような暗雲があたりにたちこめた。
◇ ◇ ◇
ここは? バッツは場違いな景色にあたりを見回した。
広く明るい部屋のなかにいる。
室内には低いテーブルとイスと、良い身なりの子どもたちがいた。
「学院だ」 驚いて振り向くと、すぐとなりにルースがいた。
ルースは景色から目を離さず言った。
「孤児院になるまえの」
やがて生徒たちが席についた。
廊下の扉が開き、先生に続いておかっぱのかわいらしい少女が入ってくる。
「あいつが編入してきた時か・・・」
紹介のあと、ぺこりとおじぎしたアルリシアは案内され、席についた。
そのとなりの窓際の席で頬杖をついて、
外を眺めていた黒髪の少年がふと彼女を見た。
風景は変わる。
さっきの少年にアルリシアが話しかけている。
少年は端整な顔立ちをしていたが、子供らしい無邪気さとは無縁だった。
ひどく冷めた傲慢な目をしていて、
周囲の子たちに決して溶け込もうとはしなかった。
その青みがかった黒髪の少年を少女はルースと呼んだ。
この風景は彼女の記憶?
誰もが、その場にいるバッツとルースの存在を無視していた。
今よりもずっと幼いルースとアルリシア。
風景は脈絡なく次々と変わる。
そのすべてにルースがいた。
彼女はルースに幸せそうに笑いかけ、ある時は涙をためて怒っていた。
「彼女にとって、あなたは特別な存在だったようですね」
「・・・」
夢のごとく、うつろう記憶のなかで、貴族らしき娘に何か一方的に言われ、
その娘がルースのもとに走っていくのをアルリシアは見送っていた。
そこからルースはいなくなり、バッツも見覚えのある教皇庁や
法衣をまとったギリアド、そしてこの礼拝堂が映った。
ギリアドをかばうように悪魔と対峙したアルリシアの瞳に
ルースの姿が映り、あたりは闇に染まった。
そして子供たちの声が響き、やきつく光が闇を目覚めさせた。
◇ ◇ ◇
「我が夢の世界へようこそ」
魔法陣の中心でアルリシアがうっすらと笑っていた。
いつのまにか、彼女のわきにルースがぼんやりと立っている。
「ルース?!」
「この女、まだ我に逆って自由がきかぬ。
この男の体をもらってこいつは喰うことにした」
かわいらしい少女の顔に似つかわしくない冷笑が浮かんだ。
「愛する男に喰われるのだから、この女もうれしかろう。
愚かな女だ。我を追い詰めたものを。
この男の姿をしたらためらいおった」
「へえ。そいつは光栄だね」
呆然と立っていると思ってたルースが意思を持った目でにやりと笑った。
「アルル」
ルースの両手がアルリシアの頬を包みこむ。
いとおしそうに優しく。
だが、おぞましい声が少女の口からあがった。
「キサマっ! 何をした!」
少女は苦悶に満ちた表情でルースを突き飛ばした。
聖水を入れてあったカラのビンが澄んだ音を立てて床に転がる。
突然、同じ苦悶の表情を浮かべながらも、それは別の人物に変わった。
「ルー・・・ス。逃げ・・て・・・」
震えるアルリシアの唇から言葉がこぼれ落ちた。